今回ご紹介するのは

明智光秀(あけちみつひで)の首塚がある

東梅宮 明智光秀の塚

東梅宮(ひがしうめのみや) 明智光秀の塚です。


明智光秀と言えば

本能寺の変(1582年)で主君である

織田信長(おだのぶなが)を討ったことで

有名な武将ですよね


光秀が信長を

なぜ裏切ったのかという理由については

今でも、謎に満ちていて

色々な意見があると思います。


『公秀光』と書かれた額

『公秀光』と書かれた額が奉納されていました。


そこで、まず最初に

光秀がなぜ本能寺の変を起こしたのか?


よく言われる原因を簡単に2つ

ご紹介したいと思います


①下克上よろしく天下を狙った説


信長をはじめとする

他の戦国大名と同じで

天下を狙った説です。


この時代

天下が取れそうだったら取るという人は

他にも大勢いたと思います。


それが恩人であれ何であれ

チャンスがあれば我こそは

という感じだったと思いますよ♪


また、主家を裏切る行為をしているのは

何も光秀だけではないんですね。


信長が討たれた当時

彼の周りには

100名程しか従者がおらず

他の諸将も遠方に散らばっていたので

すぐに駆けつけられない状況でした


そんな中、光秀は

京都に陣を置いていて

軍勢約1万3000人がいたと言われています。


約1万3000人 vs 約100名・・・

これを想像したら

「あれ?もしかして勝てる?

天下取れちゃう!?」

と光秀が考えたとしてもおかしくないですよね


それにしても

信長がどうして100人程で移動していたのかと言いますと

光秀が守っていたからなんですね~


簡単に言えば、警備を任せてた人に

討たれたというわけなんです


まさに多勢に無勢、信長は

問答無用で自害に追い込まれたと思います。


光秀は大変頭が切れる男だったと言いますから

全ては彼のシナリオ通りに

進んだのかも知れませんね


②怨恨説


こちらの説は良くテレビや小説で取り上げられるので

ご存知の人も多いとい思います。


いくつか上げてみますと


・家康の接待の席で

魚から変な匂いがしたという理由で

皆の前で足蹴にされた事

※足蹴にされたエピソードについては、堅田供御人行列鮒奉献奉告祭 2012(下鴨神社)の記事をご覧下さい。


・丹波の国を攻略する際

信長のせいで

人質にされていた光秀の母を

磔(はりつけ)にされ殺されてしまった事


・中国攻めをしている秀吉の下に加われと

信長に言われた際

光秀が治める丹波の国を取られ

変わりに毛利の土地に領地変えを言われた事

※丹波の国は、現在の亀岡市を中心とした一帯のことです。


こういった事の積み重ねで

信長を討ったという説ですよね


大きく2つの原因をご紹介しましたけれど

ともかく、光秀は

信長を討ち、天下を取ったわけです


しかしその後、秀吉との戦いである

山崎の合戦で敗れてしまうんですよね。


秀吉との戦いに敗れた光秀は

勝龍寺城(しょうりゅうじじょう・現在の長岡京市にあった城)にいったん入ると

夜中に城を脱出し

数人の供回りだけで

坂本城(現在の滋賀県大津市にあった城)を目指します。


その移動中

山科区伏見の小栗栖(おぐるす)と呼ばれる場所で

光秀は落ち武者狩りに遭い

脇腹を刺され、致命傷になってしまうんですね


その後、家臣に介錯を頼み

自刃したと言われています。


説明版

そこで光秀の首が、その後どうなったのか

気になるところですよね~


しかし、こちらもはっきりした事がわからず

大きく2つの説があるんですよ。


1つ目は・・・


首を小栗栖の竹薮に埋めたんですけれど

3日後、農民に発見され、秀吉に送り届けられます。

その後首は、別に発見された胴体と金具でつながれると

しばらくの間、粟田口(あわたぐち)に晒された説


2つ目は・・・


小栗栖で落ち武者狩りに遭ったとき光秀が

「首を知恩院で灰にし、胴は田の中に隠せ」と言ったので

家臣の溝尾茂朝(みぞおしげとも)が馬の鞍覆い(くらおおい・布)で包み

知恩院の近くまで来たそうなんですけれど

夜明けになったので、仕方無く埋葬した説


どちらが正しいのかはわかりませんけれど

どちらの説も最終的には

首を粟田口の塚に埋葬したということになっているみたいですよ


そしてその塚というのが

今回ご紹介しているものなんですね♪


五輪塔

塚はもともと

西小物座町(にしこものざちょう・東山区)にあったそうなんですけれど

光秀の子孫と名乗る明田理右衛門が

塚にあった五輪塔を自宅へ移し、供養したと言われています。

そして明治になると、現在地に移されたそうですよ


祠

祠の中には、光秀の木像と位牌があり

かつては遺品や遺骨も納められていたそうなんですけれど

持ち帰ろうとした人が多く、現在は見れなくなっています。


ちなみに光秀の塚は

首から上の病気にご利益があるそうですよ


市川団蔵建立の石碑

こちらは明治の歌舞伎俳優である

市川団蔵(いちかわだんぞう)が

1903年(明治36年)に建立した石碑なんだそうです。

明智光秀を演じるにあたって寄贈したと言われています。

※ちなみに光秀の戒名である『長存寺殿明窓玄智大禅定門』と記されています。


光秀団子

現在、この塚は、近くにある

餅寅という団子屋さんが管理されているそうで

餅寅さんでは、光秀団子が売られているんですよ~


早速食べてみましたが

とてもおいしかったです


そんな光秀の首塚がある

東梅宮 明智光秀の塚の場所はコチラ


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