今回ご紹介するのは
山門
妙心寺にある龍泉庵(りょうせんあん)です!
龍泉庵は通常非公開のお寺で
現在『第48回京の冬の旅』が行われ
非公開文化財を特別公開しているんですね
第48回京の冬の旅は3月18日までとなっています。
では、さっそく龍泉庵をご紹介していきましょう
このお寺は妙心寺の48ある塔頭の1つで
妙心寺四派(しは)の1つ
『龍泉派』の本庵です。
妙心寺四派とは・・・
『東海派(とうかいは)』『霊雲派(れいうんは)』
『龍泉派』『聖澤派(しょうたくは)』の事で
妙心寺の中興開山である雪江宗深(せっこうそうしん)の
優れた4人の弟子それぞれが開祖となりました
※経済安定を計った事から妙心寺は『算盤面(そろばんづら)』と呼ばれているんですよ。
庫裏(くり)。こちらから入ります。
その4人の中で雪江宗深に『禅は景川(けいせん)』と評された
『景川宗隆(けいせんそうりゅう・伊勢出身の一番弟子)』は
一番広い土地を与えられると
細川政元(ほそかわまさもと)を開祖として
龍泉寺を創建するんですね。
※龍泉菴は四派の中で一番最初に創建されたそうですよ。
庫裏の前にあった梵鐘です。
その後、妙心寺は全国で末寺が増え続け
膨大な数になりました。
それぞれ四派のお寺に
末寺を管理させ
妙心寺の運営にも参加させたようですよ
ちなみに細川政元という人物は
室町幕府の管領(かんれい・将軍を補佐する役職)で
室町幕府第10将軍・足利義稙(あしかがよしたね)を
追放しちゃう事件を起こした人物です。
※明応の政変(めいおうのせいへん・1493年)といい、この事件で足利義稙は将軍職を追われ全国を流浪した事から『流れ公方(くぼう)』というあだ名がつくんですね。
方丈前の枯山水庭園。
龍泉菴の方丈は江戸時代に建てられたもので
妙心寺山内塔頭の中で最大規模みたいですよ
方丈にかけられていた額
そして方丈には
1999年(平成11年)の開祖五百年遠諱(おんき・法要)にあわせて
『由里本出(ゆりもといづる・日本画家)』さんが描いた 100面にも及ぶ障壁画が納められています。
ちなみに由里本出さんは京都に生まれ
大正から昭和にかけて活躍した日本画家
『堂本印象(どうもといんしょう)』に師事し
金沢で修学されたそうです。
写真撮影が禁止であったため
お見せできないのが残念ですけれど
室中の間には『種々東漸図(しゅじゅとうぜんず)』
東の間には、北海道の風景
西の間には、山岳が描かれていました
こちらは看板の写真です。
また、玄関には
龍泉寺の名前にちなんで描かれた
『昇龍図』があり
看板にも使われていましたよ。
その他にも狩野探幽筆『観音・龍虎図』や
『腕切りの猿』と言われる
長谷川等伯『枯木猿猴図(こぼくえんこうず)』の 複製も展示されていました
枯木猿猴図は
もともとは加賀前田家にあったらしく
本来は六曲屏風(6枚折り)だったようです。
現在は2幅の掛軸装に仕立て直されています。
なぜ『腕切りの猿』と呼ばれているのかといいますと
2代目である前田利長(まえだとしなが)が
寝ていると・・・
ある日、猿が夜中に腕を伸ばして
彼の髪をつかんだんですね
これにビックリした前田利長は
猿の腕を斬り落としちゃったそうですよ。
それ以来、『腕切りの猿』と言われているそうです。
猿じゃなくても
夜中に髪をつかまれると
誰でも驚いちゃいますよね
こちらは庫裏の屋根です。
昔は銅で葺かれた銅葺きだったようですが
現在はなんとチタンだそうです!
温故知新と説明されていましたよ~
銅葺きならぬチタン葺きというワケですね
こちらは大玄関です。
妙心寺の開祖は花園天皇(はなぞのてんのう・第95代天王)ということもあり
『花園太上法皇仙洞之遺蹟』と書かれた石碑もありました。
そんな龍泉庵の場所はコチラ↓
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