さて、今回は
南蛮寺跡(なんばんじあと・なんばんでらあと)をご紹介します!
南蛮寺跡と聞くと
南蛮寺というお寺の跡・・・
と思っちゃいますよね
実は、この『南蛮寺』というのは
キリスト教の教会の事で
つまり、通称というわけなんです。
ですから南蛮寺という名称の
お寺があったわけではないんですね
今回ご紹介している南蛮寺は
1576年イエズス会によって建てられたもので
こま札を見てみると
もともとこの地の北側
『姥柳町(うばやなぎちょう)』の辺りに
あったと書かれています
また老朽化に伴い
建て替えの必要性が出てくると
信者・数百人の協力と
所司代である
『村井貞勝(むらいさだかつ)』の援助があったと
言われています。
そして無事に建て替えが終わると
7月16日に記念のミサが
盛大に行われたみたいですよ~
ちなみに信者の間では
『珊太満利亜上人(さんたまりあしょうにん)の寺』 とも呼ばれていたそうです。
この場所は
織田信長のゆかりの場所としても
知られているのですけれど
信長と南蛮寺の関係って
どんな関係があるの~
とお思いの方もいらっしゃると思いますので
ゆっくりとご説明しますね♪
まず皆さんもご存知のように
日本の歴史上、3人の天下人
と言われる人がいます!
それは
「織田がつき
羽柴がこねし天下餅
すわりしままに食うは徳川」
と言われるように
『織田信長(おだのぶなが)』
『豊臣秀吉(とよとみひでよし)』
『徳川家康(とくがわいえやす)』
の事ですよね。
この3人の中で
キリスト教に対し何の禁止もしなかったのは
なんと信長ただ1人だけなんです
何でも新しいもの好きだった信長は
宣教師が伝える西洋文化に
興味津々!
禁止するよりも保護していたんですね~
また信長は他の仏教勢力の力を
少しでも削ごうと考えていたのかも知れません。
つまり、信長が積極的にキリスト教を保護していたので
教会である『南蛮寺』も
信長ゆかりの地!
という事になるんですね
しかしこの南蛮寺
ある人物によって破壊されてしまいます。
その人物とは・・・
豊臣秀吉です
秀吉は
当初、信長の政策を引き継いで
禁止はしていませんでした。
しかし、1587年7月24日に
伴天連追放令(ばてれんついほうれい)を
出した事で
キリスト教に対し制限を設ける事になります。
※ちなみに家康も息子・秀忠の名で、禁教令(1612年)を出してキリスト教を禁止しています。
この伴天連追放令なんですけれど
漢字で見るとイメージがわかないですよね。
これをカタカナすると
『バテレン追放令』となり
勘のいい人は
これで何となくイメージできたと思います
「バテレンってヤツを追放しちゃおう!」
という事ですよね。
では、そのバテレンって一体なんなのでしょうか?
バテレンとは
ポルトガル語で『宣教師』の事を意味します。
つまり!『宣教師追放令』というわけなんです。
そういう事があり
教会も破壊されてしまいます。
でもなんで信長は保護してきたのに
秀吉は追放しようとしたの
と、思いますよね。
その理由は・・・
天下も目前になり、関白になった秀吉が
九州の方でまだ戦をしていたので
1585年、九州の大名らに
戦をやめるよう『九州停戦令』
を出します。
しかし九州の有力大名である
島津氏が、これを受け入れませんでした。
そこで、
「こーなったら、わし自ら行くしかない!」
という事になり
秀吉が自ら九州征伐に出かけます
その後、九州を平定すると
筑前箱崎(ちくぜんはこざき・現在の福岡市東区)で
伴天連追放令を出します。
この事から
「九州で何かキリスト教に関する事件があったんだな?」と
思いますよね。
そうなんです!
九州の地で秀吉は思いもよらない事を知ってしまいます。
それはなんと、長崎が
キリスト教会領になってたんです!
長崎って結構重要な港があるのに
そこが教会領になってるのってまずくない?
と思われる方も多いと思います。
実際、神戸が外国領になってたら
ゾッとしますよね。
秀吉はそれを知って
「おみゃ~何勝手に重要な長崎を寄付しちゃってくれてるんだ(怒)」
と怒り心頭だったと思います。
それで、これはまずい
「急いでなんとなせにゃ、やばいことになりかねん。」
と思い、伴天連追放令を出したというわけなんですね。
実は秀吉は、以前から
キリスト教徒に対して
五畿内(ごきない)から遠ざけ
かつ伴天連をその地から追放しようと
考えていました。
※五畿内とは皇居が置かれた『山城・大和・河内・和泉・摂津』という5つの国の事です。
それをいつ実行するのか・・・
という問題があったのですけれど
おそらくこういった経緯があったから
九州で出したのではないかと思います
この事は諸説あるので興味のある方は
調べてみると面白いかも知れませんね。
そんな南蛮寺跡の場所はコチラ↓
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