今回は、平清盛(たいらのきよもり)ゆかりの石碑を
ご紹介したいと思います
それは・・・
平清盛公西八条殿跡(たいらのきよもりこうにしはちじょうどのあと)です!
西八条殿(西八条第・八条亭とも)とは、平清盛の邸宅です。
武士であり太政大臣にまで出世した平清盛は
六波羅館(ろくはらやかた・京都東山区)と
この西八条殿という2つの邸宅を持っていました
「平家にあらずんば人にあらず」という言葉があるように
清盛の力によって平家はひと時の栄華を極めていたんですね。
※平清盛については、平 清盛ゆかりの地巡りの記事をご覧下さい
息子たちも政界に進出し
平安時代後期は、平氏が世の中でもっとも力を持った時代だったと
言われているんですよ
六波羅館には数千もの平家の邸宅がずらりと並びました。
西八条殿には、平清盛の邸宅はもちろんの事
彼の弟である頼盛(よりもり)、そして息子である
重盛(しげもり)、宗盛(むねもり)の邸宅などが
あったそうですよ
ちなみに、西八条殿の場所はドコかと言いますと
京都駅から800メートルほど西にある
梅小路公園(うめこうじこうえん)付近だと言われています。
この『平清盛公西八条殿跡』の石碑が建っているのは
さらにそこから西に700メートルほどの位置にある
若一神社(にゃくいちじんじゃ)境内です。
どうしてこの神社に石碑があるのかと言うと
若一神社は西八条殿の鎮守社とされていた事が理由にあるようです。
邸宅はかなり大きかったようで
大小合わせて、50余りもの館が建ち並んでいたようです。
ちなみに、源平盛衰記(げんぺいせいすいき)では
清盛はこの邸で、蓬(よもぎ)を愛でるシーンが描かれているそうですよ。
この西八条殿には蓬の庭があったとされ
西八条殿は別名『蓬壺(ほうこ)』と呼ばれました
この他
平家物語(平家の繁栄と没落を描いた軍記物語)に登場する
祇王(ぎおう)や仏御前(ほとけごぜん)のお話の舞台も
この西八条殿だと言われているんです。
ここで白拍子(歌舞)をする祇王を見初めて
彼女たち一家をこの邸宅に住まわせたようです
※清盛と彼女らに関するお話は、祇王寺にて詳しく解説しています。
清盛が出家してからは
福原(兵庫県神戸市兵庫区でかつての首都・福原京)にいる事が増え
この邸宅は、妻であった平時子(たいらのときこ・後の二位尼)が
留守を預かっていたみたいですね。
平家の繁栄の象徴と言えた西八条殿でしたが
1181年、清盛が亡くなった2日後
放火に遭います。
その後、すぐに建物は再建されましたが
源義仲らから逃げる形で
平家は都落ちする事となりました
その際に、自ら火を放って西八条殿や周囲の平家の館を燃やしたそうですよ。
この跡地と言われる梅小路公園の発掘調査では
柱の跡や、平安時代後期の土器、炭化遺物も出土し
当時、火災があった事を裏付けているようです
ちなみに、若一神社にある、平清盛手植えの楠木は
西八条殿での火災で焼け残ったものを、移したそうですよ。
もう一方の六波羅館はどうなったのかと言うと
平家滅亡後、ここに鎌倉幕府の
六波羅探題(ろくはらたんだい・朝廷を監視する組織)が置かれたんですね。
という事で今回は
平清盛公西八条殿跡をご紹介させていただきました
場所はコチラ↓
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