今回は、幕末の石碑を1つご紹介したいと思いますっ。

それは・・・

古高俊太郎邸跡

古高俊太郎邸跡です!


この名前を聞いてピンときた人は

なかなかの幕末マニアですね~。

実は、この古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)は

池田屋事件(1864年)のきっかけとなった人物だったのです


ちなみに

『池田屋事件(または池田屋騒動)』は皆さんも

ご存知かと思いますが

一躍『新撰組』の名を轟かせた事件ですよねっ

1864年、祇園祭の宵々山(よいよいやま)の日

新撰組は、旅籠屋(はたごや・旅館)である『池田屋』に集まっていた

長州藩士らを襲撃し

彼らの計画していた犯罪を未然に防いだというものです。

※計画とは・・・長州藩を中心とする尊王派が、風の強い日を選んで御所に火を放ち、佐幕派大名らを殺害して、天皇を拉致し、長州に連れて行くといった一大クーデターでした。


でも、どこで新撰組は、その計画を知ったのでしょう?

・・そのきっかけとなったのが

この古高俊太郎なのですっ!


では、まずは彼の生い立ちから、簡単にご説明したいと思います


古高俊太郎邸跡こま札

1829年に大津(滋賀県)で生まれた古高俊太郎は

小さい頃から門跡寺院(もんぜきじいん・皇族などが出家する寺)にて

和歌などを教わっていたそうです。

ここで公家らと関わりを持ったみたいですね


その後、勤王の志士で儒学者の梅田雲濱(うめだうんぴん)のもとで

勤王思想を学んだと言います。

※梅田雲濱については安祥院の記事をご覧下さい。


この中で、長州藩士らを中心とする勤王志士と

交流を深めながら

1861年、30歳を過ぎて

とうとうお店を持つ事になります。

それが『枡屋(ますや)』です。

この石碑はその店の跡地に建つものなんですね

場所は繁華街である四条河原町からすぐの場所です。

※この店は先代より継いだようです。ちなみに養子としてこの家に入り、店を継いだみたいですよ。


枡屋では、古道具や馬具を扱う他

薪炭商(しんたんしょう)を営む店だったようです

しかし、それは表の顔であり裏では

武器の調達などを行い

勤皇志士たちの武器貯蔵庫となっていました。


こうして、枡屋は志士たちの潜伏する

いわゆる「アジト」のような役割になっていたそうです


では、どうして古高俊太郎は

新撰組に捕まる事になったのか?

これにもきっかけがありまして

もともと、新撰組は志士の1人である

宮部鼎蔵(みやべしんぞう・熊本藩士)を

捕らえる為に、枡屋に踏み込んだそうです

※それまでの間にも、新撰組は宮部鼎蔵の下僕を捕まえ、数日で縄を解き泳がせると、この枡屋に入っていた事から目をつけられていたみたいですね。


しかし!

・・・そこにいたのは古高俊太郎でした(汗)


以前から怪しまれていた店だったので、新撰組は古高俊太郎を連れて行く事に。

こうして新撰組に捕縛される事になります

そして壬生で過酷な拷問を受ける事となったんですね。


なかなか吐かない古高俊太郎に対し

2階から逆さ吊りにすると・・・

足の甲から五寸釘を打ち、それが突き抜けた足の裏の釘に

蝋燭を立て火をつける!・・という過酷なものでした

こうしてついに自白させる事に成功し

結果的に池田屋に踏み込み、テロを未然に防ぐ事となったんですね。

※取調べの経緯については木屋町界隈の史跡 その2の記事をご覧下さい。


池田屋事件については

木屋町界隈の史跡 その2の記事や

池田屋騒動之址の記事にて詳しく解説していますので

そちらをご覧下さい。


ちなみに、古高俊太郎はその後

六角獄舎(ろっかくごくしゃ)と呼ばれる

京の牢屋に閉じ込められていましたが

『蛤御門の変』によってこのあたりに火の手が迫ると

逃亡を恐れた幕府の役人によって斬首されたそうです

享年36歳でした。


という事で今回は古高俊太郎邸跡をご紹介させていただきました。

場所はコチラ↓


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