今回ご紹介するのは
幕末ファン必見のマニアックな場所(跡地)を
ご紹介したいと思います
それがコチラっ・・・・
坂本龍馬避難の材木小屋跡
(さかもとりょうまひなんのざいもくごやあと)
です!!
坂本龍馬?材木小屋?
これを聞いて、酢屋(すや)の事を
連想する人もいるかもしれませんが
その場所ではありませんっ
こちらの材木小屋跡は、伏見区(京都市の南部)に建てられた石碑で
寺田屋や薩摩藩の伏見藩邸跡からも程近い場所にあります。
※寺田屋については寺田屋騒動址 その2、伏見藩邸跡については薩摩藩邸址(伏見藩邸)の記事をご覧下さい。
かつてこの場所にあった材木小屋と
坂本龍馬は一体どんな関係があるのか?
しかも避難ってどういう事!?
・・・では今から、ご説明したいと思いますっ!
この材木小屋というのは
寺田屋で起こった寺田屋事件(1866年)にまつわる史跡なんですね。
寺田屋事件とは
坂本龍馬が伏見奉行所の人間に襲われた事件で
後の妻である『お龍(おりょう)』や
長州藩の『三吉慎蔵(みよししんぞう)』の協力によって
刺客から龍馬を守ったというエピソードが残されているんですね。
寺田屋にて襲撃された坂本龍馬と三吉慎蔵は
逃げ延び、最終的に薩摩藩の伏見藩邸にかくまってもらったのですが
その際、一時的に身を潜めていたと言われているのが
今回ご紹介している『材木小屋』だったのです!
では、事件について詳しく解説していきましょう!
薩長同盟締結から2日後の深夜、坂本龍馬は
三吉慎蔵と寺田屋にいるところを、伏見奉行所の人間に襲撃されます。
※薩長同盟に関しては木屋町界隈の史跡 その1をご覧下さい。
この時、風呂場にいたお龍が、不穏な気配を察知し
2階にいた龍馬たちに知らせます。
それを聞いた龍馬はピストルで
三吉慎蔵は槍で応戦したと言われています
※龍馬はこの時、右手の親指から人さし指の根元をざっくりと斬られ、深い傷を負ったそうです。
この時の様子は、坂本龍馬避難の材木小屋跡の横にある
説明版にも記載されているのですが
負傷した龍馬は三吉慎蔵の肩をかりて
寺田屋裏口の物置を抜け、隣の家の戸を蹴破って
逃走したと言われています
ちなみに、龍馬らは北に向かって逃走したみたいですね。
※現在その道は『龍馬通り商店街』と名付けられているそうですよ。
しかし、奉行所の人間がその先で待っている事に気付き
三吉慎蔵は、西(左)に方向転換し
大手筋(おおてすじ・現在の大手筋商店街)を通って
豪川(ほりかわ・ごうがわ)に出たそうです
その豪川にかかる橋(大手橋)の付近に建っていたのが
材木小屋だったのです
この豪川は伏見城の外堀として作られた川だそうで
現在は、期間限定で観光客を乗せた
十石舟(じっこくぶね)や
大型の三十石船(じっこくぶね)が運行しているんですよ
三吉慎蔵は怪我をしている龍馬をこの場所に隠し
助けを呼びに行く為、伏見藩邸に向かったと言われています。
川沿いを歩けば、伏見藩邸まで約800メートル弱。
三吉慎蔵は奉行所の人間に見つからないように、伏見藩邸まで向かいました。
この時、お龍が先に伏見藩邸に、一報を知らせていた為
藩邸の留守居役だった薩摩藩士『大山彦八(おおやまひこはち)』は
三吉慎蔵を出迎えると、すぐさま船を使って、豪川を下り
龍馬救出に向かったんですね
※これらの話は、三吉慎蔵日記抄録(みよししんぞうにっきしょうろく)と呼ばれる資料に残されているものです。
この時、龍馬はかなりの出血をしていたようで
もう少し遅ければ、命を失っていた可能性もあったそうですよ(汗)
こうして救助された龍馬は、伏見藩邸で3日間過ごし
その一ヶ月後、お龍と日本で初めての新婚旅行に旅立ったと言われています
ちなみに、こちらの石碑は大手橋の西詰め南側に建っていますが
材木小屋は、橋の東詰めにあったとされています。
この他にも、実は伏見藩邸寄りに架かっている
『土橋(どばし)』付近に小屋があったのではないか?とも言われているそうですよ。
という事で、今回は坂本龍馬避難の材木小屋跡を
ご紹介させていただきました!
場所はコチラ↓