今回ご紹介するのは、維新志士の1人・・・
中岡慎太郎(なかおかしんたろう)が京都の住まいとしていた
中岡慎太郎寓居跡(なかおかしんたろうぐうきょあと)です
彼は坂本龍馬と供に、薩長同盟の締結に奔走したと言われる人物で
近江屋にて殺害された事は、皆さんご存知ですよね。
こちらの寓居跡は、京都のメインストリートの1つである
河原町通(かわらまちどおり・南北に走る通り)に建っています
では、簡単に中岡慎太郎についてご紹介させていただきます!
彼は龍馬と同じく土佐出身で
庄屋(しょうや・村役人の長)の長男として生まれました。
その後、土佐藩の武市瑞山(たけちずいざん・半平太)に剣術や学問、学んだと言われています。
※ちなみに武市瑞山の方が10歳ほど年上だったそうです。
その後、武市瑞山の結成した
『土佐勤王党(とさきんのうとう)』に身を置いたそうです。
土佐勤王党は、身分の低い郷士(ごうし)の集団で
一言でいえば尊皇攘夷集団(そんのうじょういしゅうだん)です
つまり、幕府ではなく天皇による国政を行い
『夷敵(いてき)=外国人』を打ち破るという思想を持っていました。
そこには坂本龍馬もいたと言われ
最終的には190名以上が名を連ねたそうですよ
ちなみに、坂本龍馬も中岡慎太郎も
土佐勤王党・四天王の1人だと言われています。
※残りの2人は武市瑞山と吉村虎太郎だそうです。
つまり、土佐勤王党でもかなりの中心人物だったみたいですねっ。
その後、土佐藩を脱藩した中岡慎太郎は京都にやって来ると
この『中岡慎太郎寓居跡』の建つ
河原町通に面した本屋『菊屋(きくや)』に身を寄せたのでした。
ちなみに、この菊屋は土佐藩御用達の本屋だったという事もあり
中岡慎太郎以外にも複数の土佐藩出身の者が住んでいたそうですよ。
そして脱藩から3年・・・
中岡慎太郎の尽力により薩長同盟(1866年)が実現します。
一般的に、薩長同盟は龍馬の功績のように語られていますが
近年では、中岡慎太郎による功績が大きいという見方もあるそうです
※『薩長同盟』に関しては木屋町界隈の史跡 その1をご覧下さい。
さらに翌年(1867年)には『陸援隊(りくえんたい)』を結成します
この組織は、武力倒幕の考えを持った集団で
70名程の隊員がいたそうです
こうして、江戸幕府を揺るがす程の人物になった中岡慎太郎でしたが
皆さんもご存知のとおり・・・
同年、近江屋にて暗殺されてしまうんですね!
※近江屋事件について詳しくは、坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難之地の記事をご覧下さい。
ちなみに、この龍馬と中岡慎太郎が襲撃された際
軍鶏(しゃも)を買いに、近江屋を出た1人の少年をご存知ですか?
・・・そうです、峰吉(みねきち)です。
龍馬はこの日「軍鶏鍋(しゃもなべ)が食べたい。」と言い出し
側にいた峰吉(世話役の少年)に使いを頼んだんですね。
実はこの少年・・・なんと、中岡慎太郎が身を寄せていた
菊屋の息子だったそうです
なんでも峰吉は、龍馬や中岡慎太郎らを大変慕っていたようで
彼らに剣術を教えて貰ったりしていたみたいですよ。
なので、峰吉からすると2人は
『憧れのお兄さん』といった感じだったのではないでしょうか。
それが、軍鶏を買って帰って来ると
2人が血だらけで倒れていたんですから・・・さぞかしショックだったでしょうね。
ちなみに、近江屋と菊屋は河原町通を隔ててすぐの距離だったそうです。
峰吉は事件の状況を把握すると
陸援隊の屯所(現在の京都大学付近)まで、急いで知らせに走ったそうですよ
※この時、土佐藩邸には近江屋の主人(井口新助)が知らせに走ったとも、峰吉が知らせに走ったとも言われています。
この時、龍馬は即死でしたが
中岡慎太郎は奇跡的に一命をとりとめ
事件の証言などを行い、焼飯が食べれるほどにまで一時は回復したそうですが
襲撃から2日後、亡くなったそうです。
享年30歳でした。
2人のお墓は
京都にある霊山護国神社(りょうざんごこくじんじゃ)に建てられています。
近江屋事件のあった11月15日には毎年『龍馬祭』が行われ
大勢の人が2人の墓前に手を合わせているんですよ
※詳しくは龍馬祭 2011(霊山護国神社)の記事をご覧下さい。
ちなみに、腕を顔にあてた有名な中岡慎太郎と思われる写真は
峯吉の妻であった『キン』の遺品だったそうです
そんな中岡慎太郎が京都にて身を寄せていた
書店『菊屋』の跡地でもある、中岡慎太郎寓居跡の場所はコチラ↓