今回はご紹介するのは

本能寺跡

本能寺跡(ほんのうじあと)です


皆さんは、本能寺と聞けば・・ある出来事が思い浮かびますよね?

そうですっ・・『本能寺の変』です!


今回ご紹介する本能寺跡は、まさしく

その『本能寺の変』が起こったとされる場所なんですね


1992年に、この地にあった小学校が廃校となり

以前からこの辺りに本能寺があったと

推測されていたことから発掘調査が行われ

めでたく本能寺があった場所と証明されました!!


そこで、分かった事は大きく2つ

当時の本能寺の規模(広さ)と、その構造です


・・みなさんは本能寺ってどんなお寺だったと思いますか?

現在建っているような普通のお寺を

想像しているのではないでしょうか?


実は、少し違うんですね。

まずは、境内の広さですが

少なくても東西約100メートル、南北約200メートル程の大きさが

あったと推測されています。


これは、京都でもかなり大きな寺院であった事は間違いないようですよっ。

※一説には東西約150メートル、南北約300メートルとも言われています。


そしてもう一点・・

本能寺には高い防御力が兼ね備えられていた!という事です。

発掘調査によって、境内には

『L字型』をした堀(深さ1メートル・幅4メートル以上)があったり

高い石垣などを築いた遺構が見つかっています。

この他にも、多くの伽藍が並び、馬小屋なども建てられていたそうです。


つまり・・・お寺でありながら、お城のような高い防衛力を兼ね備え、武士が滞在出来るよう配慮された施設だったんですね。

※実際、本能寺は織田信長の常宿となっていたようです。


こま札

近くにはこま札もありました。ちなみに、現在は京都市立堀川高等学校本能学舎と養護施設が建てられています。


そんな本能寺で、織田信長は家臣の明智光秀(あけちみつひで)の襲撃を受け

自刃に追い込まれました。

その際に、お寺も全焼したと言われています。

※その後、織田信高(おだのぶたか・信長の七男)によって再建されますが、秀吉の区画整理によって東に1.5キロほどの場所に移築されました。これが現在の本能寺です。詳しくは『本能寺』の記事をご覧下さい。


この話だけ聞くと

明智光秀ってひどい人なんだね!これってすごい裏切じゃない!?

・・なんて思っていらっしゃる方もいそうですけれど

当時は戦国時代で、こうした下克上は普通の事だったんですね

※明智光秀が謀反を起こした理由については、はっきりとした資料は残っておらず、歴史家によって様々な説が唱えられています。


ちなみに、本能寺の変はいわゆる正々堂々とした合戦ではなく

明智光秀の奇襲によるもので

信長が寝ている間(早朝4時)に本能寺を1万3000の兵で取り囲んだんですね。

・・・そりゃ勝てっこないって話です。


本能寺跡石碑

跡地には、このような立派な石碑も建っています。


ちなみに、この時、織田信長の軍隊は・・・わずか100名程。

しかも信長公記(しんちょうこうき・織田信長の一代記であり一級資料)によると

その半数の50名が『本能寺の変』で殺されたと言われています。


中には、必死で逃げた者もいたんでしょうが・・

どちらにしても信長たちにとって、劣勢であった事は間違いありません

では・・なぜこれ程までに手薄だったのか!?


一言で説明するなら

・・信長が油断してたってコトなんです。

実際、京都や近江、安土などに信長の敵はいなかったですし

この頃は『信長の世』と言っても過言ではありませんでした。

要するに、天下統一は目前といった状況なんです


では、どうしてこの日、本能寺にいたのか!?

これは、家臣の1人である豊臣秀吉の援軍要請に応じて

中国へ毛利家の討伐に行く予定だったと言われています

安土城を出発した信長は、そのまま京に入り本能寺に宿泊したのでした。

※ちなみにその日は本能寺で博多の豪商・島井宗室(しまいそうしつ)を招き、茶会を行っていたそうです。


じゃあ信長の主だった家臣たちはドコにいたの!?

これもバラバラに分かれ、京には誰一人いなかったようです。

・羽柴秀吉(豊臣秀吉)

毛利家を討伐中につき、岡山県(備中)に滞在。

・柴田勝家

上杉家を討伐中で、富山県にある魚津城(うおずじょう)に滞在。

・滝川一益(たきがわかずます)

北条軍との戦いの最中で北関東に滞在。

・徳川家康(同盟)

商売の町、大阪の堺を見学中。


こうした理由が重なり

手薄になった所を、明智光秀に攻め込まれたんですね


ここからはテレビでも有名なシーンなので

皆さんもよくご存知だと思います

家臣である森蘭丸(もりらんまる)が

廊下を急ぎ足で走りながら

「信長様!謀反でございまする!水色地に桔梗!光秀様の謀反でございまする!」

という知らせを受け

信長は、旗になびく光秀の家紋である桔梗紋を目にするんですね。


そして、対応を迫られた信長は、一言

「是非に及ばず」と残し、弓矢や薙刀で明智軍に応戦したのです。


しかし、皆さんご存知の通り

燃え上がる本能寺で自刃する事を決めた信長は

最後に「死体(首)だけは絶対に光秀に渡すでない!!!!!!!」

と言い残したようで

この言葉通り、光秀の手に信長の首が渡る事はありませんでした。

※信長の最後については、様々な説や言い伝えが残されています。中には、信長の骨を持ち帰ったという清玉上人(せいぎょくしょうにん)の話などもあります。詳しくは、阿弥陀寺の記事をご覧下さい。


こうして本能寺には火が付けられ

跡形も無く燃え尽きたと言われています

※ちなみに、その後の明智光秀ですが、急いで京に戻ってきた秀吉と大山崎にて激突します。結果的に明智光秀は、落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺し殺され命を落とす事となったんですね。こちらについても、詳しくは阿弥陀寺の記事をご覧下さい。


という事で、今回は『本能寺の変』が起きた現場である

本能寺跡をご紹介させていただきました。


場所はコチラ↓


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