こんにちは京子です!
今回ご紹介するのは・・・
赤穂浪士ゆかりの地めぐりです
皆さん、ご存知の忠臣蔵は
江戸時代に起きた
『赤穂浪士討ち入り事件』を元にした演目の事なんですよ。
元禄15年、12月14日に
大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお)以下
四十七士が、吉良邸へ討ち入りをしました。
※赤穂浪士討ち入り事件に関して、詳しくは山科義士まつり 2010(大石神社)の記事をご覧下さい。
事の始まりである『松の廊下事件』をきっかけに
赤穂藩主であった浅野匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が切腹し
赤穂藩は、お取潰しとなります。
この時、赤穂藩の筆頭家老であった大石内蔵助は
主君の敵(かたき)を取る為に
赤穂藩を離れ、京都に移り住んだんですね
この事から、京都には大石内蔵助をはじめ
赤穂浪士に関するゆかりの神社やお寺がいくつもあります。
という事で、早速ご紹介していきましょう~
・来迎院(らいごういん)
赤穂藩を離れた大石内蔵助は
来迎院を檀家として京都に移り住みました。
当時は、寺請制度により
個人はどこかの寺の所属(檀家)となる事が決められていたんですよね。
本堂にある『勝軍地蔵尊』に
大石内蔵助は手を合わせていたと言います。
大石内蔵助の建てた茶室『含翠軒(がんすいけん)』にて
吉良邸討入りの密談をしていたと言われているんですよ~
※来迎院に関しては、来迎院(東山)の記事をご覧下さい
・法住寺(ほうじゅうじ)
本尊である不動明王は『身代不動(みがわりふどう)』とも呼ばれ
討ち入り前に、大石内蔵助が
ここで成功を祈願したと言われています
堂内には四十七士の木像も安置されていています。
毎年12月14日には義士会法要(ぎしえほうよう)も行われ
去年は、こちらで
大石内蔵助が書いたといわれる書状も拝見する事が出来ました。
山科で隠居生活をしていた彼が
四十七士の1人である
堀部安兵衛(ほりべやすべえ)に宛てた手紙だそうです。
※法住寺や義士会法要に関して、詳しくは義士会法要 2011(法住寺)の記事をご覧下さい。
・毘沙門堂(びしゃもんどう)
山科にて、討ち入りの日に合わせて行われる
『山科義士まつり』の義士隊の出発点でもあります
天台宗五門跡寺院の1つでり
当時、入寺していた公辨法親王(こうべんほっしんのう)は
吉良を討った赤穂浪士の処分について
徳川幕府5代将軍『綱吉』に意見を求められ
「彼らの目的はすでに達成された。
武士の道を立て、切腹させてやるべきです。」と伝えた事で
綱吉は四十七士に対して、切腹を命じる決断が出来たと言われています
・瑞光院(ずいこういん)
こちらには、浅野内匠頭の墓や
四十七士の1人、寺坂吉右衛門信行(てらさかきちえもんのぶゆき)を除く
46人の遺髪塔(いはつとう)が建てられています。
写真の中央にあるのが浅野内匠頭のお墓です。
浅野内匠頭のお墓は、大石内蔵助が建てたそうで
彼は墓参りの度に、この瑞光院で
同士らと討ち入りの密議をしたとも伝わります。
・大石神社(おおいしじんじゃ)
昭和に入り、建立された大石神社は
大石内蔵助が祀られています
宝物殿には
討ち入りの様子を描いた『四十七士図屏風』や
大石内蔵助の直筆の書など
数多くの赤穂浪士にまつわるものが数多く展示されています。
境内にも大石内蔵助の石像や
こま札など、彼にまつわるもので溢れているんですよ
12月14日に行われる『山科義士まつり』では
大石神社が終着点であり
ここで四十七士による勝どきが上げられます
※山科義士まつりについては、山科義士まつり 2010(大石神社)の記事をご覧下さい。
という事で、一気にご紹介させていただきましたけど
この他にも『本妙寺』には、四十七士である
貝賀弥左衛門友信 (かいがやざえもんとものぶ)
吉田忠左衛門兼亮(よしだちゅうざえもんかねすけ)
吉田沢右衛門兼定(よしださわえもんかねさだ)のお墓があり
12月14日には『四十七士記念義士祭』が行われます。
※この時の様子は四十七士記念義士祭 2012(本妙寺)の記事をご覧下さい。
という事で今回は
赤穂浪士ゆかりの地をご紹介させていただきました
場所はコチラ↓
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