こんにちは京子です!
今回ご紹介するのは
本妙寺(ほんみょうじ)で行われた・・・
四十七士記念義士祭(しじゅうしちしきねんぎしまつり)です
皆さんもご存知かと思いますけど
本日、12月14日は
『赤穂浪士討ち入り事件(あこうろうしうちいりじけん)』のあった日です。
大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお)以下
四十七士が、吉良邸へ討ち入をした事件です。
※赤穂浪士討ち入り事件に関して、詳しくは山科義士まつり 2010(大石神社)の記事をご覧下さい。
この日は毎年、赤穂浪士にゆかりのある
寺や神社で、様々なイベントが行われているんですよ
※当サイトでも、2010年は山科義士まつり 2010(大石神社)、2011年は義士会法要 2011(法住寺)とご紹介させていただきました。
ちなみに、今回ご紹介する本妙寺は
通称『赤穂義士の寺』とも呼ばれ
四十七士の1人である『貝賀弥左衛門友信 (かいがやざえもんとものぶ)』のお墓が
ある事で知られています。
こうした事から、討ち入り事件の日に合せて法要が行われているんですね。
※義士とは、47人の赤穂浪士(四十七士)の事を指しています
本妙寺について簡単にご説明しますと
起源は鎌倉時代、日蓮宗の祖『日蓮』の遺命により
京都で布教活動を行っていた日像(にちぞう)によって
開山されたお寺です。
その後、一時期は廃寺となったり
お堂が焼失した事もありましたが
1728年に本堂が再建され、現在に至ります。
では早速レポートしたいと思います
10時より宝物館において法要が始まります。
こちらは、宝物館に安置されている
四十七士の木像です。
この他にも赤穂浪士に関する遺品や遺墨などが
数点、公開されていました
まず住職の方の挨拶があった後
お経が読み上げられ、焼香を上げます。
約30分程で終了すると
続いて、境内の西側にある
貝賀弥左衛門の墓地に移動し
同様にお経を上げ、焼香を行います
ここで
貝賀弥左衛門のお墓が出来た経緯についても、ご説明します。
松の廊下事件をきっかけに
赤穂藩主であった浅野匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が切腹し
赤穂藩は、お取潰しとなります。
この時、赤穂藩の筆頭家老であった大石内蔵助良雄は
主君の敵(かたき)を取る為に
赤穂藩を離れ、京都に移り住むんですよね
※当初、大石内蔵助良雄は、吉良の処分を幕府にちゃんと願い出ようと画策していましたが、聞き入れてもらえず、結果的に吉良を討つ事を決心したのです。
こうした経緯があり
赤穂藩であった貝賀弥左衛門も、同様に
妻と娘を連れて京都へと移り住む事となりました。
この時に
貝賀弥左衛門友信を京都にて世話したのが
かねてから親交のあった
京都の豪商『綿屋善右衛門(わたやぜんえもん)』なんですね
※彼は呉服屋を営んでおり、代々赤穂藩の御用商人だったそうです。
13時からは本堂にて琵琶の奉納も行われました。総勢10組が、赤穂浪士の討ち入りに関する演目を披露していましたよ。
ちなみに
綿屋善右衛門は、赤穂浪士に対して
資金面の援助なども行っていたと言われ
四十七士を影でバックアップしていたのです。
そして、赤穂浪士の討ち入りに関しては
皆さんもご存知の通り
見事に敵討ちを果した四十七士は
その責任を取り
寺坂吉右衛門信行(てらさかきちえもんのぶゆき)を除く
46人が切腹の命を受けました。
貝賀家は代々、法華宗だった事から
弥左衛門は本妙寺を菩提寺と定めていたそうです
こういった経緯から
綿屋善右衛門の手によって、こちらのお墓が建てられました
このお墓は共同墓地であり
貝賀弥左衛門友信以外に
同じく四十七士であった
兄の吉田忠左衛門兼亮(よしだちゅうざえもんかねすけ)と
その子、吉田沢右衛門兼定(よしださわえもんかねさだ)
そして妻の『おさん』の4名が眠っています。
そばの接待も行われていました。討ち入り前夜、四十七士は江戸市中のそば屋に集まり、そばやうどんを食べたという逸話があります。
昭和5年には、綿屋善右衛門の末裔の方より
本妙寺に対して
赤穂義士の遺品や遺墨など数十点が奉納され
それをきっかけに宝物堂を建立し
四十七士の木造を祀ったそうです。
という事で、今回は本妙寺で行われた
四十七士記念義士祭をご紹介してみました。
場所はコチラ↓