こんにちは京子です。
今回ご紹介するのは11月15日に
伴緒社(とものおしゃ)で行われた
伴緒社祭(とものおしゃさい)です
※伴緒社は1868年の11月15日に建てられました。
伴緒社は白峯神宮内の北角にある境内社で
弓の名手であった
『源為義(みなもとのためよし)』と『源為朝(みなもとのためとも)』
を祀っています。
※大河ドラマ・平清盛(たいらのきよもり)でも登場していましたね。
彼らは、1156年の保元の乱において
白峯神宮の御祭神である崇徳上皇側についた源氏です。
保元の乱とは
鳥羽上皇(とばじょうこう)が亡くなった後の権力争いが原因で
崇徳上皇(すとくじょうこう)と、その弟である後白河天皇(ごしらかわてんのう)による戦いです。
源氏、平氏、摂関家のそれぞれが両軍に分かれて戦った結果は
後白河天皇側の勝利に終わり
なんと崇徳上皇は、讃岐に島流しにされてしまいます
※ちなみに平清盛や源頼朝(みなもとのよりとも)の父・義朝(よしとも)は後白河天皇側です。
この後、武士の力が大きくなり
後の武家政権が誕生するきっかけとなりました
※保元の乱について詳しくは、高松神明神社の記事をご覧ください。
そんな伴緒社で行われる伴緒社祭は
武道や弓道の上達を願って
『鞠庭(まりにわ)』と呼ばれる拝殿横のスペースで矢を射る神事です。
今年は小笠原流による三々九手挟式(さんさんくてばさみしき)が披露されましたよ
※例年は愛弓会の方が奉仕されているそうです。
三々九手挟式とは
元々、正月の4日『弓始式(ゆみはじめしき)』と呼ばれる
行事の時に限って行われていた矢を射る儀式で
天下泰平を祝うという意味があったそうです
射手は4人毎に前弓(まえゆみ)と後弓(あとゆみ)という2チームに分かれ
チーム毎の合計的中数を競います
合計8人が2回の矢を射ます。
最後の大将だけは1回の的中で
2本的中した事として数えられます
射る的は杉や桧が使われ
一辺の長さが
前弓は8寸(約24cm)、後弓は9寸(約27cm)の的が用いられます。
この板を挟む物を『挟物(はさみもの)』と言い
9寸の板の裏には、『井』の字に切れ目を入れたものが
3寸(約3cm)毎の9つに分けられている事から
三々九の挟物と言われているんだそうですよ
では早速、伴緒社祭をレポートしたいと思います。
11時頃に白峯神宮へ到着すると
伴緒社に弓を奉納されている所でした。
しばらくすると伴緒社で神事を行う為に
関係者の行列が社務所前から出発します。
20分程でお祓いや祝詞の奏上などが行われると
鞠庭へと移動します。
射手がそれぞれの席に着くと
大将が鞠庭の中央へと出て行き
日記役(記録係)から
「三々九手挟式、始めませ」
という宣言がされ、いよいよ始まりです
前弓と後弓、それぞれの射手が1人ずつ
射蓆(いむしろ・的から約20m程の所にある弓を引く場所)へと移動し
左上半身を脱いで矢を射る体制を整えます。
とっても寒い中行われていたのにも関わらず
凛とした姿はとっても勇ましかったです
最初に前弓が矢を射ると、続いて後弓が矢を射ます。
矢が当たるとこれを掲げます。
その後、再び前弓、後弓の順番で合計2回の矢を射終えると
服を整え射蓆の前に用意された数塚(かずづか・砂で作られた直径30cm・高さ10cm程の円柱)に
矢を射る時と同じ順番で前弓、後弓が的中した数の串を立て
次の射手へと交替します。
使った矢は回収され、的係から矢が返されていましたよ。
天気はあいにくの雨だったのですけれど
見事、矢を2回とも的中させてらっしゃる方もいらっしゃいました
一連の流れは動画でご覧ください。
約1時間程で8人全員が射ち終えた結果は
7対4で
前弓の勝利でしたよ
最後には始まる時と同様に
日記役から「前弓の勝」という宣言があり
本日の伴緒社祭は終了しました。
そんな伴緒社祭が行われた伴緒社の場所はコチラ↓
より大きな地図で 伴緒社祭 を表示