こんにちは京子です
今回ご紹介するのは11月1日に
護王神社で行われた・・・
亥子祭(いのこさい)です。
平安時代に宮中の年中行事であった
『玄猪の式(げんちょのしき)』を再現する神事です
玄猪の式は
亥の月(旧暦の10月)、亥の日、亥の刻に
天皇自らが餅をつき、皆に振る舞い
無病息災を祈願したと言われています。
※これは中国大陸から伝わった風習だそうです。
亥子祭は
京都御所からも程近く、祭神の神使が『イノシシ(亥)』で知られる
護王神社で、昭和35年より行われていて
境内で亥子餅(いのこもち)をついた後、御所に献上します。
※護王神社について詳しくは護王神社 その1、護王神社 その2、護王神社 その3をご覧下さい。
では早速レポートしていきましょう
17時から護王神社の本殿にて『本殿ノ儀』が行われます。
お祓いに始まり、祝詞を奏上します。
続いて、17時半より『御舂ノ儀(おつきのぎ)』が始まり
境内の舞殿にて
宮中の餅つきが再現されます。
宮司をはじめ、神職の方や
平安装束姿の5人の奉仕女房(ほうしにょうぼう)と呼ばれる女性が
舞殿に上がり、まずはお祓いを受けます。
続いて、雅楽が流れる中
天皇役となった宮司の前に、5人の奉仕女房が
お餅をつく為の臼(うす)や杵(きね)などの道具を運び込みます
※この他の神職の方は殿上人(てんじょうびと・官人)の役をしてらっしゃいます。
では、5人の奉仕女房が持ち込んだものをご紹介します
『一ノ女房』が臼を用意。
↓
『二ノ女房』が杵を用意。
↓
『三ノ女房』が粉餅を用意。
↓
『四・五ノ女房』が水筒を用意。
↓
『一ノ女房』が白菊・双葉紅葉・鴨脚(いちょう)・忍草(しのぶぐさ)を飾ります。
↓
『二・三ノ女房』が軒忍(のきしのぶ・植物)を飾ります。
こうして
餅をつく道具を運び、飾り付けなどが終わると
宮司が臼に粉餅を入れる、そして奉仕女房が水を注ぐ仕草を行い
つき始めます!
ちなみに餅は
胡麻(黒)、小豆(赤)、栗(白)の3種類をつきます。
これは当時、身分によって天皇から賜る餅の種類が分かれていたからなんですね~
※公卿などには黒を、殿上人には赤、それ以下は白だったそうですよ
歴史ある亥子餅は、『源氏物語』にも登場するんですよ。こちらは境内で売られていた亥子餅です。
ついている間、神職(殿上人役)が
「神奈月 時雨のあめの あしごとに 我思うこと かなえ つくつく」
とゆっくりと唱えます。
※神奈月とは旧暦10月の意味、つくつくは臼の事を指します
無事に、つき終わると
宮司や神職は左の袖で口を隠し「いのちつくつかさ」と唱えます。
この後、箸を使って臼から取り出す仕草をします。
これで1種類完成ですね。
2度目をつき終わった時は
奉仕女房が右の袖で口を隠し「いのちつくさいわい」と唱和します。
※3度目は、宮司や神職・奉仕女房が交互に「いのちつくつかさ」「いのちつくさいわい」と交互に唱和します。
これらの作法も
当時、宮中で行われていた事を再現しているそうですよ
こうして3種類つき終わると
1つは神前に献上します。
その後、移動し
玉串の奉納などを本殿前にて行います。
そして19時頃より
『禁裏御玄猪調貢ノ儀(きんりおげんちょちょうこうのぎ)』が始まります。
これは御所へと、亥子餅を献上しに行く儀式なんですね
提灯を手に持ち、朝貢列を組んだ一行が
護王神社を出発します。
出発の際には火打石が打たれました。
護王神社のすぐ近くにある蛤御門(はまぐりごもん)を通り
御苑内に入ると
御所の『清所門(せいしょもん)』まで向かいます
※清所門はかつて、皇女達が使っていた門だったそうです
こうして、清所門をくぐり
中で待っている宮内庁の人に餅を献上し
祝言(しゅげん)を奏上します。
この後、その他の方々が一同に「いくひさ」と寿詞(よごと)を上げます。
※寿詞とは、天皇の御代(みよ・在位期間)が長く栄える事を祝う言葉です
清所門を出る宮司達。
無事に護王神社へ帰って来た後
本殿前にて祭神にご報告し、神事は終了です。
最後に記念撮影が行われました。
この後、参拝者に対しても亥子餅が振舞われます。
境内で行われる餅つきは
一般でも参加する事が出来ます
皆で亥子囃(いのこばやし)を唄いながら
楽しい餅つきが始まります。
ちなみに亥子囃の歌詞はこんな感じです。
『亥子囃』
亥の月 亥の日 亥の子刻
厄除 三種の 亥子餅
舂くつく つく つく
命つく つく それ幸いなぁー
猪しゃ 餅食って ほーい ほい
和気(わけ)さん お出まし えーい
えーい えい
※和気さんとは祭神の和気清麻呂(わけのきよまろ)の事ですね。彼と猪の関係については護王神社 その2の記事をご覧下さい。
この他にも体の温まる、おでんやお酒なんかも
いただく事が出来ましたよ
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