こんにちは京子です!
さて今回ご紹介するお寺は・・・
蓮光寺(れんこうじ)です
場所は河原町六条近くにあります。
始まりは1492年(室町時代)に
天台宗の真盛(しんせい)というお坊さんにより開基されました。
後に秀吉によって浄土宗に改められました。
こちらのお寺は平清盛ゆかりの寺院として知られています。
戦国時代の大名である長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)のお墓もあります。
清盛(当時41歳)の乗る馬が
蓮光寺からも近い六条河原に差し掛かった時
急に馬が動かなくなったそうです。
何事かと辺りを掘ってみたところ、1つの地蔵が出てきたんですね
それが境内の『地蔵堂』にあります駒止地蔵尊(こまどめじぞうそん)です。
この地蔵は
弘法大師『空海(くうかい)』の作と言われています
六条河原は処刑場があった地であり
そこにこの地蔵が祀られていたそうです。
それが度重なる鴨川の氾濫で地中に埋もれてしまっていたんですね。
駒止地蔵尊が祀られている地蔵堂です。
これを清盛が掘り起こしたという事です。
後に蓮光寺が建てられ、祀られるようになりました。
馬の足を止めた事から絵馬はこのようなデザインになっています。
高さは2.4メートルもある大きなもので
別名『首切り地蔵』とも言われています。
※盗賊から信者を守り、身代わりになって首を切られ信者を救ったという故事からその名前が付きました。
蓮光寺の本堂になります。
そして蓮光寺には
戦国時代の大名である『長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)』のお墓もあります。
彼の父親である長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は
安土桃山時代には四国を平定するまでに
勢力を拡大した戦国大名で、豊臣政権に臣従しました。
その家督を継いだ盛親は
決して諦めない不屈の武将だったと言われています。
彼のターニングポイントの1つが
関ヶ原の戦いです。
盛親は西軍につき、東軍の家康たちと戦います。
しかし結果的に
毛利軍が動かなかった為に部隊を進撃できず
戦わずして負け、四国に逃げ帰ります。
その後、家康に謝罪を入れ、所領を安堵してもらうとしますが
彼の兄である津野親忠(つのちかただ)が家康に取り入り
長宗我部家の領土である土佐を半分やるという話を耳にします。
それを聞いた盛親は激怒し親忠を殺してしまうんですね
これを知った家康は案の定激怒し、土佐の領地を没収。
その後、身柄を京へ送られ、謹慎処分となります。
盛親はその後、寺子屋の先生などをしながら生計を立てていたそうです
武士であればここで切腹してもいいんですけど
彼は決して諦めない不屈の武将であり
貧しい生活をしながらも長宗我部家の再興を望んでいたんですね。
ちなみにこの頃に蓮光寺の住職と親交があったみたいですよ
そして、いよいよ彼にもチャンスが到来します。
それが大阪の陣ですね
豊臣家を滅亡させる為に家康がふっかけた戦いです
この時、秀吉はすでに亡くなっていて
大坂城は秀吉の息子である秀頼がいました。
江戸には幕府があり、天下は徳川家が握っていました。
しかし大坂城に秀吉の息子である秀頼がいる事から
豊臣恩顧の武将達も数多くいました。
そうした中で家康は自分亡きあと、徳川の世を磐石にするには
秀頼(豊臣家)を討つしかないと考えたわけです
一説によると家康は成長した秀頼を見た時
自分の息子より秀でていると感じたと言われています。
そこで豊臣家は秀吉の残した財産を使い
全国の浪人たちに収集するお触れを出します。
こうして盛親も秀頼に召集されたのです。
家康の世では長宗我部家の再興はないと考え
豊臣家につき、戦いに勝ち恩賞(土佐の領地)を
貰う考えでいたのでしょう。
しかし大阪冬の陣では出番の無いまま和睦に応じ
外堀を埋められます
続く夏の陣では
家康軍の中でも勇猛な武将で知られる藤堂高虎(とうどうたかとら)
の部隊をあと一歩のところまで追い詰めますが
援軍にかけつけた井伊隊によって状況が一変し、盛親は大坂城へと逃げ帰ります。
そしていよいよ大坂城に火が回ると
「運さえ良かったら俺ら勝っていた。天下取れてたはずだろ?」
と言い残し再起を図って大坂城を逃亡するんですね。
ここでも最後まであきらめない不屈のパワーを感じます。
その後は、京都の八幡に潜んでいたようですが
家康の家臣に見つかり
六条河原で6人の子女とともに斬首され
三条河原に晒されましたという事です。
最後まで諦めない不屈の精神で
長宗我部家の再興を目指した長宗我部盛親のお墓がある
蓮光寺の場所はコチラ↓
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