こんにちは京子です。
![平等院](2012/05/26/01/2012-05-26-7.jpg)
本日ご紹介するのは平等院で行われた頼政忌(よりまさき)です。
2012年5月26日である今日は源頼政(みなもとのよりまさ)の833回忌になります
![源頼政のお墓](2012/05/26/01/2012-05-26-1.jpg)
こちらは源頼政のお墓です。
さて、源頼政という人物は一体どのような人物だったのかと申しますと
源平合戦のきっかけを作った人物と言えば
わかりやすいのではないでしょうか。
また、鵺(ぬえ)を退治したという逸話も残っているんですよ
※鵺についての詳しいお話は大将軍神社をご覧下さい。
![こま札](2012/05/26/01/2012-05-26-2.jpg)
彼は1156年の保元の乱、1159年の平治の乱、ともに勝者側につき
その後、平家の世にあっては、清盛の信頼厚い源氏の人でした。
そんな彼が平家を討つさきがけとも言える行動をとる事になります
時は1180年
後白河法皇(ごしらかわほうおう)の皇子である以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)によって挙兵します。
どういう事なのかと言いますと
この頃、平清盛(たいらのきよもり)は後白河法皇を幽閉していました。
さらに清盛は高倉天皇(たかくらてんのう)を退位させ、自分の娘である徳子と高倉天皇の間で出来た
子供を天皇に即位させます。
それが安徳天皇(あんとくてんのう)です
後白河法皇を幽閉した事によって、後白河法皇の院政がストップし
高倉天皇が安徳天皇に譲位した事で、高倉上皇となり院政を開始します
高倉上皇は平家にとって都合のいい人物だったんですね~
※院政とは、元天皇である上皇による政治の事です。
さらに平家によって以仁王の領地は没収されます。
これらの事によって以仁王は
平家を討てという令旨を源氏に出すんですね。
つまり以仁王にとっては面白くないことづくし
平家さえいなくなれば・・・
という感じだったのではないでしょうか。
頼政は平治の乱の時に平家側についた事によって
清盛からの信頼が大変厚かったのです
ですから清盛は、頼政が挙兵した事を最初は信じられませんでした
さてそう言ったお話を頭に入れて頂いた所で
本日のレポートに行きます
午前10時に平等院に着いた京子
平等院と言いましても境内は広く
頼政のお墓のある場所は
![最勝院](2012/05/26/01/2012-05-26-8.jpg)
血縁者やゆかりのある人たちが見守る中
![住職さんによるお経があげられます](2012/05/26/01/2012-05-26-3.jpg)
住職さんによるお経があげられ
ご焼香をあげられました。
一般の人もご焼香をあげる事ができますので
来年は頼政の834回忌に手を合わせに行かれてはいかがでしょうか
京子も手を合わせましたよ。
![観音堂](2012/05/26/01/2012-05-26-4.jpg)
こちらが観音堂です。
いつもは閉じられてますけれど5月26日の頼政忌に合わせて
中を見る事が出来ます
中は写真撮影が禁止でしたので文章でお伝えしますと
正面に観音菩薩があり左側に源頼政坐像が安置され
観音菩薩の右側には不動明王が安置されていましたよ
そして観音堂でも南無阿弥陀仏の念仏が唱えられ
頼政の供養がされました。
その後、頼政最期の場所と伝わる
![扇の芝の前でも念仏が唱えられました](2012/05/26/01/2012-05-26-5.jpg)
扇の芝の前でも念仏が唱えられました。
頼政は宇治川の戦いで平知盛(たいらのとももり)の追撃により
敗れます
この扇の芝の場所で、頼政は最期の時を迎えるわけですけれど
その時、境内を汚さないようにと
軍扇を敷き、その上で西の方角に向いて南無阿弥陀仏と10回唱えてから割腹されたそうです。
ちなみに、扇の芝と呼ばれる理由はこの事によります。
![扇の芝](2012/05/26/01/2012-05-26-6.jpg)
現在この場所は扇の形に芝が植えられているんですよ
歌にも大変優れていたと言われる彼の辞世の句はこちらです。
『埋もれ木の花咲く事もなかりしに身のなる果てぞかなしかりける』
頼政は敗者の将ではありますけれど
その後の源頼朝(みなもとのよりとも)や源義経(みなもとのよしつね)が
頼政に続いて挙兵し、源氏政権である鎌倉幕府が開かれる事を考えると
歴史上無くてはならない偉大な人物であった事は間違いありませんね
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