こんにちは京子です
さて、本日ご紹介する神社は
吉田神社(よしだじんじゃ)です
場所はドコかと言いますと京都大学のすぐ側で
吉田山の麓から中腹にかけて境内が続いている大きな神社です
「神楽岡(かぐらおか)」とも呼ばれていたこの地は
霊域として崇められたそうで
古くから祭や葬礼が行われていたんですね。
吉田神社が建てられたのは
平安京遷都後の859年
藤原山蔭(ふじわらのやまかげ)が平安京の鬼門に位置する
神楽岡に藤原氏の氏社である春日大社を招き
都の鎮守や藤原一族の繁栄を願い建てられました。
吉田神社はそういった経緯から
『厄除け』や『方除け』のご利益があるそうです
こちらは吉田神社の絵馬です。鬼が描かれています。毎年2月2日に行われる鬼やらい(追儺式)は有名です。
拝殿になります。この奥に本殿があります。
さて、そんな吉田神社は室町時代に
神社界のトップに昇りつめる事となるんです
何故かと言うと
吉田神社の神官(神主)の一人である・・・
(・∀・)ノ吉田兼倶(よしだかねとも)の力によるものなんです。
彼は吉田神道(よしだしんとう)を起こし
吉田神社を全神道の頂点に位置付けました。
江戸末期には
全国の8~9割の神社を傘下に治めていたそうですよ
明治期になるまで大きな権威を誇り
吉田家は神社界の総家と言われるようになりました。
例えば、神職の任命権も吉田家が握っていたのですよ
こちらは拝殿左側。
拝殿の向いに建っている舞殿になります。
その吉田兼倶って一体どんな人なのと言いますと
彼は卜部氏(うらべし)出身の人物で
卜部氏とは、簡単に言うと『朝廷に仕える占い師』の事です。
主に出航の日や田植えの時期などに関わる吉凶を占っていました
占い方は
『太占(ふとまに)』と呼ばれる鹿の肩甲骨を焼いて
骨のヒビの入り方を見るという方法です。
骨を焼いて占う方法は縄文時代からあったそうで
鹿以外にも様々な動物の骨で占われていました
卜部氏による占いは
実は現在も行われています
それは天皇陛下が即位して最初に行われる収穫祭(大嘗祭・だいじょうさい)での事で
天皇家へ治めるお米を全国の中から選ぶ時に
亀卜(きぼく)と呼ばれる亀の甲羅を使った占いで決められました。
占いを行っていた卜部氏は
朝廷や天皇家から絶大な信頼を得、
この他にも朝廷の儀式・祭典を取り仕切ったり
全国の神社の管理をしました
末社のひとつである山蔭神社。創設者の藤原山蔭が祀られてます。
こちらも末社である神龍社。祭神は吉田兼倶です。
摂社の神楽岡社です。神座(かみくら・神霊の座する場所)の岡という言葉から『神楽岡』という地名がついたそうです。
卜部氏出身で吉田神社の神官であった吉田兼倶によって
境内に建てられたが
斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんぐう)です。
兼倶は吉田家の学問を発展させ
吉田神道(唯一神道)を起こしました。
※吉田家の子孫には、三大随筆のひとつである『徒然草』で有名な吉田兼好(よしだけんこう)がいます。
先ほどの写真の奥には大元宮の本殿があります。八角形の独特の形をした建物で、吉田神道の原理を表しているものだそうですよ。
そんな吉田兼倶が神官をしていた
吉田神社の場所はコチラ↓
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