こんにちは京子です。
さて、本日11月15日は
何の日かと言いますと・・・
そうです。
あの、幕末のヒーロー
(・∀・)ノ坂本龍馬の命日なんですね~っ
という事で全国各地で
龍馬の追悼イベントが行われていると思いますけれど
京子は
龍馬のお墓があります霊山護国神社で行われた
龍馬祭(墓前祭)に参加して来ました~!!
慶応3年(1867年)11月15日。
龍馬はこの日。京都の近江屋にて
同じく元土佐藩の中岡慎太郎(なかおかしんたろう)と
一緒にいる所を何者かにより襲撃され暗殺されました
※犯人は、一応のところ『京都見廻組』の今井信郎の自供によって解決しているんですね。
霊山護国神社も紅葉が見ごろに近付いています。
境内には土佐藩招魂社もありました。
祭神は坂本龍馬、中岡慎太郎他100余烈士と説明されています。
こちらが祠です。
龍馬は即死、中岡慎太郎も2日後の17日に帰らぬ人となりました。。。
本日は、そんな二人のお墓の前で龍馬祭が行われます
ちなみに、この墓地には
龍馬と中岡慎太郎のお墓だけでなく
木戸孝允(桂小五郎)のお墓などもあるんですよ。
つまり、霊山護国神社は
幕末の維新志士たちの英霊が集う場所なのです。
まずは、最初にご紹介しました土佐藩招魂社にて
午後3時より、『旧土佐藩招魂社祭』が行われます。
ちなみに、この上に
龍馬や中岡慎太郎のお墓があるんですねっ
それと、下では
参拝者に対して軍鶏鍋(しゃもなべ)が振舞われていましたよっ
この「しゃも」という言葉は
当時あった国の名前である『シャム(現・タイ国)』から
つけられたそうで
タイでは闘鶏(鶏同士を戦わせる)が文化のひとつとしてあり
それが日本に軍鶏として伝わりました。
江戸時代頃から広く庶民にも食べられるようになったそうです。
あれでも、軍鶏鍋って・・・龍馬と何か関係あるの
なんて思ってませんか
そうなんですっ
龍馬が暗殺される直前に食べようとしていたのが
この軍鶏鍋なんですね~っ
いよいよ午後三時半から龍馬と中岡慎太郎のお墓で、墓前祭が始まりますっ。
神官により、龍馬や中岡慎太郎の生い立ちなどを丁寧に読み上げられていました。
この二人のお墓の更に上には木戸孝允(桂小五郎)などのお墓もあり、そこまで数百人もの人たちがずらっと並んでいます。
これは龍馬の出身地、高知市で行われた『龍馬誕生祭』の火です。これを京都に持ってきて献灯されました。高知県知事もいらしてましたよ
事件当日の(11月15日)の夜は
龍馬は、近江屋の二階に宿泊していました
そんな龍馬を訪ねて来たのが、同志である中岡慎太郎です。
ちょうどその頃、龍馬は風邪を引いていたそうです。
訪ねて来た中岡慎太郎をもてなす為に
龍馬は、側にいた峰吉という世話役の少年に
「軍鶏鍋でも食おう。買うてきてや」と使いに行かせたのです。
そうです。
体の温まる鍋を二人で食べようとしてたんですね
みなさんもご存知の通り、
このすぐ後に、刺客の手によって龍馬や中岡慎太郎は殺害されます。
つまり・・・龍馬たちは軍鶏鍋を食べ損なっていたのですね。
なのでこうして軍鶏鍋が振舞われているのです♪
とっても温かそうでしたよ~
さて、墓前祭が終わり
京子も墓石の前へと足を運びます。
お話によると
龍馬たちを偲び、彼の命日に合わせ
毎年多くの方が
このお墓に集まるそうです
京子も当日の様子は
ニュースなどで見た事はあったんですけど
参加するのは初めてで
ちょっぴり緊張しました~っ
境内には新しい龍馬像も建ってました。
こちらは記念に配られていた名刺です。
こちらが表です。ちなみに上のマッチには幕末に活躍した方たちのお名前が書かれていましたよ。
ちなみに、龍馬は31歳、中岡慎太郎は29歳という若さで
この世を去る事となるんですね。
二人が亡くなった1867年は激動の年であり
徳川慶喜が大政奉還(たいせいほうかん)し
徳川270年の歴史に幕を閉じ、将軍職を辞職したのもこの年です
※大政奉還に関しては二条城の記事をご覧下さい。
他にも、孝明天皇が崩御されたり
高杉晋作が亡くなったのもこの年なんですよね。
1867年は、重要な時代の変わり目だと言えますね。
ちなみに京子は
龍馬の隠れ家であり、海援隊の京都の拠点であった
『酢屋(すや)』にも少し足を伸ばしてみました。
京都土佐藩邸のあった所から程近い場所にあります。
ここでも店先に祭壇を作り
今日という日を偲ばれていましたよ。
という事で本日は
志高く、新しい時代の礎を築きながらも
その世界を見る事なく死んでしまった龍馬たちを
追悼した京子でした~
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龍馬の隠れ家であり、海援隊の京都の拠点であった酢屋はコチラ↓
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