こんにちは京子です。

本日、ご紹介する神社は

霊光殿天満宮

霊光殿天満宮(れいこうでんてんまんぐう)です。


祭神は菅原道真と徳川家康です。

なんだか変わった組み合わせですけれど

天満宮と言えば菅原道真ですね。

彼は京の都から九州に左遷され、不遇の死を遂げた事から

怨念を静める為に全国に天満宮が作られました。

※詳しい情報は『北野天満宮 その2』の記事をご覧下さい。


霊光殿天満宮

とても頭の良かった彼は

学問の神様として知られていますよね♪


さて、こちらの天満宮は

1018年に道真の子孫によって建てられました。


この霊光殿天満宮という名前は

道真が左遷され九州へ向かう歳に立ち寄った

河内国(東大阪市)で起こったある出来事に由来しています。


突然、天から突然一筋の光と共に神様が降りてこられ

「道真や、お前は悪くない。そんな落ち込む事はないぞ。お前をおとしめたヤツらを滅ぼしてやろう。」

と、いうような事を言われたんですね。


その光が落ちたという言い伝えから『霊光殿』と名付けられたそうです。

ですので、当初は河内国に社殿があったんですね~。


霊光殿天満宮

その後、社殿を京都に移し、道真ゆかりの家柄である若江家(わかえけ)が

祠官として守っていました。


さて、そんな時に事件が起こります。

(・∀・)ノ元寇(げんこう)です!


鎌倉時代、日本はモンゴル軍(元軍)から攻撃に遭うんですね。

当時のモンゴル帝国は超巨大大国であり

中国大陸のほぼ全土を支配していました。


ヨーロッパ連合国をも破ったモンゴル帝国は

当時、世界最強を誇っていたのです。


事の発端は、

親書を持ってきたフビライハン(モンゴル帝国の皇帝)の使者が九州大宰府やって来ました。

『貿易しましょう。あなたの国を襲いたくないですから。』

と、いうような内容だったんですね。


これに対して、時の鎌倉幕府執権(将軍を補佐する役目)である

北条時宗は返答はせずに無視したのです。


返答が来ない事から

モンゴル軍が日本に攻めて来ました。


それが1274年、文永の役と言います。

3万人以上、900隻の船で博多湾に上陸したモンゴル軍。

・・・正直、とっても強かったんですね(汗)


(・∀・)ノその理由はいくつかあります。


・集団戦法で戦ってきた

(当時、日本は名前を名乗り武功を上げる為に一対一で戦う方法が普通だったのに対してモンゴル軍は集団戦法で戦ってきたのです。一人の侍に対して、何人もで囲み攻撃してきたのです。)


・鉄砲(てつはう)を使った

(てつはうは、鉄の塊の玉の中に火薬を詰め込んだかんしゃく球のようなモノです。攻撃力はないですが、当時日本にそのようなモノがなかった為に大混乱。)


こんなモンゴル軍に応戦したのは、九州の武士。


九州に住んでいる者や領地を持っているものが戦ったのですね。


結果的に、日本は残念ながらボロ負け。。。。

このまま日本全土に攻め込まれるかと思いきや、モンゴル軍の攻撃は

一夜にして終了。

すぐに引き上げたのです。


つまり・・・

「これだけモンゴル軍は強いんだぞ!お前らいう事を聞けよ!」

という脅しの目的があったんだと言われています。


霊光殿天満宮

舞殿です。1570年、まだ三河の武士にすぎなかった徳川家康が天下泰平の祈願をした事で知られています。


霊光殿天満宮

道真と言えば牛ですね。詳しくは『北野天満宮 その2』の記事をご覧下さい。


この後、再び親書を持って

北条時宗の元へモンゴルの使者がやって来るんですね。


日本としては、このまま属国となり、モンゴル軍のいう事を

聞くしか道はないのか・・・。


普通なら、いう事聞いちゃうしかないって思いますよね?


でも、北条時宗は

・・・なんと使者の首を切ります!!!


(・∀・)ノ強気です。めちゃ強気です。


時宗「属国になんてなるかい!やったろーじゃんか!」

と意気込み、今度は本格的にモンゴル帝国に対抗する策を練ります。


・石塁(せきるい)による防衛の強化

(一度目は船から地上に簡単に上陸されたので、今度は防波堤を作って本土に上がらせず、集団戦法を封じ込める作戦です。)

・異国警固番役(いこくけいごばんやく)を集めた

(最初の戦いは九州の武士だけだったのに対し、全国より武士を集め組織したんです)


そして、いよいよモンゴル軍が再び日本にやって来ます。


これが1281年、弘安の役です。

さて、いよいよ絶対に負けてはいけない戦が始まります。


ここで当時の天皇である後宇多天皇は・・・

この霊光殿天満宮とに必勝の祈祷を行わせたんですね!!

※ちなみに後深草上皇はこの時、石清水八幡宮へ行幸して祈願をしました。


霊光殿天満宮

こちらが拝殿になります。


よっしゃー!モンゴル軍かかってこい~っ。って事で

やってきたのは・・・

900隻、4万のモンゴル軍たち!!


これに全国から集めた武士で鎌倉幕府は戦いますっ。

今度は上陸される前に攻撃し、日本も応戦!

攻防戦が繰り広げられますっ!


そして、なんとか約一週間の戦いによって

モンゴル軍を上陸させずに追い返す事に成功。


しかし・・・なんと今度は・・・

( ´Д`)3500隻10万の兵が朝鮮半島からモンゴル軍が出発したのです!!

ううう、これは恐ろしい。


日本、今度はもうダメかもしれません(汗)

そんな3500隻の船が一ヵ月後日本に到着した・・

ちょうど・・・その時

海上に浮かぶモンゴル船を襲ったのは・・・


ゴォォォォォォォォォ!!!!!!

ゴォォォォォォォォォ!!!!!!

ゴォォォォォォォォォ!!!!!!

そう。


(・∀・)ノ神風(かみかぜ)です!!

台風で風が吹き荒れ、モンゴル軍の船は殆ど沈没したんですね。

これこそが、神風の語源なのです。


霊光殿天満宮

末社である老松神社です。


霊光殿天満宮

アップでもう一枚どうぞ。


日本を助けた神風。

これ以後、日本国内では神様が守る国(神国思想)として語り継がれていくんですね。


こうして日本で最初の大規模な外国との戦争は勝利に終わり

以後、第二次世界大戦まで日本は戦争に負けない国として

信じられていました。

※神風特攻隊はこうした歴史の中でつけられた名前だったのです。


霊光殿天満宮

モンゴル軍をやっつけたという知らせを受け

感動した後宇多天皇が下賜した額です。


こういった、神をも味方した戦いのご利益を授かろうと

あの徳川家康も参拝をしたのだと感じます。


彼は『応仁の乱』以降、衰退していた神社と

祠官であった若江家の再興に尽力しました。

その後、三代将軍の家光が家康の像を移し祭神となるんですね。


ちなみに、無事にモンゴル軍から日本を守った鎌倉幕府でしたけれど

この戦いに参加した武士たちに恩賞が与えられなかった事が

きっかけとなり、幕府衰退の一歩を踏み出す事となるのでした。


そんな霊光殿天満宮の場所はコチラ↓


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