こんにちは京子です。
恒例の京都検定過去問です~。
本日アップしている
京都検定過去問 その7と併せてご覧くださいね。
では、早速引き続き問題の方に行ってみましょう♪
【問題】
桓武天皇の皇太弟( )は、長岡京造営の中心人物であった藤原種継暗殺の関与を疑われ、乙訓寺に幽閉された。
分かりますか
ちなみに、皇太弟(こうたいてい)とは、天皇の弟という意味ですよ。
答えは↓にスクロールして下さい。
シンキングタイム★
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では、答えですっ。
【答え】
早良親王(さわらしんのう)
では、解説にいってみましょう。
桓武天皇(かんむてんのう)は誰かというと
平安京を遷都した天皇ですよね♪
つまり、コレにより京に都が移されたというワケです。
『鳴くよ(794年)ウグイス、平安京~。』と覚えましたよね。
ちなみに、平安京になる前に、首都はドコに
あったのかと言うと・・・
それが長岡京(784年~794年)です。
現在の長岡天満宮のあった辺りになります。
桓武天皇は仏教勢力を削ぐために
奈良(平城京)から都を移そうと考えていました。
※この頃、寺のお坊さんが政治に口を出したりしていたんですね。
その桓武天皇の信頼が厚かった人物が
問題にも出てくる
藤原種継(ふじわらのたねつぐ)なんですね。
彼が・・・
「それだったら、いいところがありますよ。
長岡京ってトコが奈良からも離れていていいですよ。」
と助言し
それを聞いた桓武天皇はOKを出し
種継にまかせていたところ、
・・・そうです、暗殺されちゃうんですね。
それが『藤原種継暗殺事件』なのです。
そして、それを疑われたのが
桓武天皇の弟である
早良親王だったんですね。
彼をこの乙訓寺へ幽閉する事となります。
※もちろん、この乙訓寺も長岡京にありますよ。
疑いをかけられた弟の早良親王は
無実を訴え、絶食までします。
しかしながら、桓武天皇は弟の流罪を決定します。
そして絶食していた弟の早良親王は
流罪になり、島に送られる道中で
餓死しちゃうんですね。。。
それ以来、早良親王の怨霊が長岡京に祟りを与えたと言われ
桓武天皇の周りの人たちが次々に死んでいったそうなんです。
そんな怨霊を鎮める為に、死後26年経っているにもかかわらず
弘法大師(空海)まで乙訓寺へやって来たんですね。
それだけ、しぶとい怨霊だったという事が伺えます。
ちなみに、早良親王の祟りを鎮める為の神社も
京都にはあります。
それが、崇道神社(すどうじんじゃ)です。
死後、彼に「崇道天皇」という称号を桓武天皇は与えたんですね。