こんにちは京子です。
さて、本日ご紹介するお寺は・・・
大黒寺(だいこくじ)です。
開山は、弘法大師「空海」だと伝わっています。
その昔は、長福寺という名前だったそうですけど
江戸時代初期、薩摩藩主であった島津義弘の命令を受け
彼の守り本尊である『出生大黒天』にちなみ大黒寺と改められたそうです。
また、近くに薩摩藩邸があり、
島津義弘の『出生大黒天』と同じ大黒天を本尊として祀っている事から
薩摩藩の武運アップの祈願所になったそうです。
ちなみに、この大黒天は空海作だと言われていて
ご開帳は60年に一度なんですって♪
この事から通称「薩摩寺」とも呼ばれています。
こちらは山門です、京子がお伺いした時は閉じていました。この日は別の門からお邪魔しました。
屋根瓦には、丸に十字の模様。これは島津家の家紋ですよね~。
さて、この大黒寺には
1862年、寺田屋騒動によって死んでいった薩摩藩士9名のお墓があるんですよね
こちらの石碑にも
『伏見寺田屋殉難九烈士之墓』と書かれています。
ん?寺田屋騒動って・・・坂本龍馬が襲われたあの事件??
と、混同しがちですけれど
寺田屋では二つの歴史的な事件が起きています!
ひとつが、1866年に坂本龍馬が襲われた寺田屋事件(てらだやじけん)
これはみなさんもよくご存知ですよね。
その4年前にも大きな事件が実は起こっていたんですね。
それが、1862年の寺田屋騒動(てらだやそうどう)
これは、薩摩藩士同士が殺し合った(同士討ち)悲しい事件だったんです。
そこで犠牲になった薩摩藩士9名のお墓が大黒寺にあるんですね。
今回は
その薩摩藩士たちが起こした
『寺田屋騒動』についてお話したいと思います。
時は幕末、ペリーが来航し日本、そして徳川幕府が大きく揺れ動いていました。
この中で行われた島津家(薩摩藩)が主導で行ったのが
『文久の改革(ぶんきゅうのかいかく)』です。
島津久光は、薩摩より京へ上がり朝廷の勅許を得て行った改革です。
具体的には、幕府を立て直す為の政策なんですよね♪
どんな事をしたのかと言うと・・・
・時の将軍である家茂の補佐役に慶喜を任命
・前福井藩主の松平慶永を大老に任命
・京都における尊王攘夷過激派により悪化した治安の取り締まり
・参勤交代の緩和
などですね
さて、外様大名である島津家(薩摩藩)が
どうして朝廷の勅許を得れたのか?と、言いますと
当時の天皇である孝明天皇と島津久光は
攘夷派として意見が一致していた事が大きかったようです。
※攘夷とは「夷敵=外国人」を打ち破るという思想の事です。
こちらは本堂です。そして、その向いにあるのが・・・
金運清水(きんうんしみず)という井戸!もちろん水が湧いてます。毎月1日に本尊にお供えするお水として使われています。
つまり・・・島津からすると
『幕府にしっかりしてもらわにゃならんから、ガツン言うでごわす!』
という事なんですね。
さて、寺田屋騒動は、この文久の改革をする為に島津久光が
およそ千人の兵を引き連れて京へ昇っていた時に起こります。
しかし、ここで・・悲しい思い違いが起こるんですね。
当時は、攘夷派とはつまり
『開国をしてしまった幕府を倒す事』と、いう二者択一的な思想が強く
島津が京に上るという事=幕府を倒す事だ!
と思ってしまう薩摩藩士が多かったそうです。
これに呼応してしまったのが・・・
薩摩藩士の誠忠組(精忠組・せいちゅうぐみ)
その、中でも有馬新七(ありましんしち)を中心とする過激派グループでした。
※彼は大老の井伊直弼、暗殺計画や、、孝明天皇奪還計画なども練っていた事で知られる人物です。
尊皇派であった彼らは
『よっしゃ!島津様も京に来てくれる事だし
京都所司代の酒井忠義を攻めるでごわす!!今なら行ける!』
と、完全に幕府を転覆させる計画を立て
当時、薩摩藩の御用達であった
寺田屋に集まっていたんですね。
・・・彼らの墓石に刻まれた字は西郷隆盛の筆によって書かれたものだそうです。
この計画を聞いた島津久光は驚きます。
島津は倒幕派ではないですし
むしろ公武合体を目指していたものですから
彼らの計画を即刻中止するように部下を急いで向かわせました。
「即刻、そんな計画は中止させろーーー!」というワケです。
薩摩藩が幕府がトラブルを起こすと
島津の描く改革が上手く行かないからです。
さて、そんな島津の命を受け
寺田屋に説得へ向かったのが
同じ誠忠組の仲間であった
奈良原繁(ならはらしげる)や大山綱良(おおやまつなよし)です。
彼らと有馬新七らは、小さな頃から一緒に薩摩藩の為に動いた同士です。
彼らなら説得できると島津久光も思ったのかもしれませんね。
そして。。この寺田屋のシーンは、ドラマなどでも描かれる
とっても悲しいシーンなんですよね。。(泣)
急いで、同士の計画を止めにやって来た彼ら。
「お願いします、考え、改めてください!有馬殿!」
「ならん、そんな考えにはならんのだ!!」
必至に考えを改めてくれと、説得します。
そうなんです。
どうしても彼らの計画を止めなければいけない理由があったのです。
それは・・・
「もし・・・それでも決行されるのであれば・・有馬殿を
島津藩の君命により上意討ちしなければなりません!!」
おさすり大黒さん。本尊は触れませんけど、こちらはさわり放題です♪
そうなんです、同じ同士でありながら
有馬新七を説得出来ないのであれば・・・殺すしかないという事なんですね。
そこで、有馬新七はただ一言。
「・・・いたしかたあるまい」
交渉は決裂。
彼ら、同士は『ある思想の違い』という理由だけで
斬り合う事となるんですね。
この事で
寺田屋は、誠忠組の同士が殺し合うと悲劇を生み出しました。
悲痛な思いで
斬り合ったと思います。
中でも、有馬新七は自らの剣が折れ、相手を押さえ込んだ状態で
「おいごと刺せ!(俺ごと一緒にコイツを刺せ)!!」
と・・・これにより有馬新七は同じ志を持つ同士に刺され死去。
幕末、西郷隆盛が大久保利通と国作りの為に論じた部屋があります。中には、ゆかりの書や歌なども残されているそうですよ。
と、いう事でこの寺田屋騒動で9人の志士が亡くなりました。
なんとも悲しい形で、この寺田屋騒動は収束しました。
しかし、なんとも皮肉なのは
この同士討ちは、幕府や朝廷の信頼を得る事となり
島津久光は文久の改革をスムーズに行えたと言われています。
そんな薩摩藩士のお墓がある大黒寺の場所はコチラ↓
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