こんにちは、京子です。
さて本日ご紹介する神社は・・・
平等寺(びょうどうじ)です。
元は、橘行平(たちばなのゆきひら)という人の邸宅で、
この人の兄は、清少納言の夫として有名な橘則光(たちばなののりみつ)です。
因幡堂(いなばどう)や因幡薬師(いなばやくし)という呼び名で親しまれているそうです
何故、邸宅がお寺になったのかと言いますと
因幡の国(現在で言う所の鳥取県です)へ出掛けていた橘行平が京へ帰ろうとしていたら
病気にかかり寝込んでしまいます。
本堂です。
するとある日、僧が夢に現れて因幡の賀留津(かるつ)の海中に浮木があるから
引き上げて供養すると病気は治り願いは叶うと告げられたんだそうです
そこで行平は病をおしながらも賀留津に来てみると、とある老人から
「この沖の海底に不思議な光を放っているものがあって、人々が恐れている」という話を聞かされ、
この話にピンッときた行平は早速それを引き揚げてもらうようにお願いをします。
そして、それを引き揚げてみると
なんと「薬師如来」の像ではありませんか
お告げの通りに、その薬師如来像を供養すると
病気が治ったんだそうですよ。
この事に感動した行平君
因幡国に薬師如来像を安置し、いずれ都に迎えると約束して帰京するのですけれど
京都へ戻ったら役所務めの忙しさから、約束を果たせずにいました
観音堂です。
幾年月も過ぎたある夜、西門から家人を呼ぶ声がするので尋ねてみると
「因幡の僧である」と答えが返ってきます。
行平が驚いてすぐに門を開けさせると
そこには、因幡国に安置した薬師如来像があるではないですか
行平はすぐさま屋敷をお寺に改造し薬師如来像を安置したことが
このお寺の始まりなんですって。
この事から、因幡堂や因幡薬師と呼ばれているのですね。
京子ちゃん京子ちゃん
因幡国に安置していた所は、薬師如来が京都へ飛び立った後はどうなったの
と、いいますと
台座と後光が残っていたそうなんです。
そこで人々は後光と台座を奉り「座光寺」と呼んだみたいですよ。
勧喜天
また、鎌倉時代には京子ブログでも取り上げました
一遍上人が一時期この堂に住み、布教の起点としていたんですって
一遍上人とは、鐘や太鼓を打ち鳴らし踊りながら念仏を唱え
時間やお金に余裕のない人でも「天国に行けるよ~!」と説いた
「踊念仏」で有名ですよね。
詳しくは、
⇒長楽寺をご覧下さい。
地蔵尊
室町後期にもなると、「町衆」と呼ばれる
いわゆる自治体が作られましたけれど
この町衆が集まった場を「町堂」といい
代表的なのが
革堂(行願寺)や六角堂(頂法寺) その1、六角堂(頂法寺) その2
そして、この平等寺なんです
また、本尊の薬師如来像は重要文化財に指定されていて
日本三如来の一つでもあるんですよ
他の二つは、
善光寺(長野県)の阿弥陀如来像、と
嵯峨釈迦堂(清凉寺)の釈迦如来像です。
約130年も前の鬼瓦なんです
そして、そして
因幡堂は浄瑠璃の発祥の地とも言われているんですよ
浄瑠璃とは、三味線で拍子を取りながら語る物語ですよね。
室町時代では猿楽(能楽・狂言の源流です)が上演されていたり、
江戸時代には歌舞伎も上演されていたそうなんです。
また、狂言の曲目の一つ「因幡堂」の舞台でもあったのですけれど
明治時代初期より途絶えてた因幡堂狂言は
平成15年に復活、因幡堂開山千年法要に際して上演したんですって。
平等寺こと因幡堂で狂言「因幡堂」が観れるというのはファンにはたまらないものだったと思います
毎月8日には手作り市が催されているので
観光の際に訪れてみて下さいな
ちなみに、北野天満宮 その3の天神さんは25日、
東寺(教王護国寺)の弘法さんは21日です。
そんな芸能文化との関わりが深い因幡堂こと平等寺の場所はコチラです。
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