こんにちは、京子です。
さて♪本日ご紹介する神社は・・・
宇治神社(うじじんじゃ)です
名前からもわかるように、京都の宇治と呼ばれるエリアに位置するコチラの神社。
宇治川を挟んですぐ向こう側には、平等院がありますよ♪
この宇治神社は、すぐ近くにあります宇治上神社とニ社一体の関係であり
明治維新以前までは、
2つを併せて『宇治離宮明神』、や『八幡宮』と呼ばれていました。
※詳しくは宇治上神社の記事をご覧ください。
この二社は、宇治川の対岸に平等院が出来ると鎮守社と呼ばれるようになったんですね。
さて、宇治神社には『兎』にまつわるものが沢山あります♪
鳥居のすぐ隣には
兎楽の樹(うらくのき)が立っています
『兎』たちが、いつでも立ち寄ってもらえるように
集い集まれる場所の象徴として植えられているのが、この兎楽の樹です。
そして、鳥居をくぐると見えてきたのは
兎ちゃんの手水鉢まであります♪
それにしても、宇治神社と兎はどんな関係があるのでしょうか??
これには、理由がありまして
宇治神社の御祭神である莵道稚郎子命(ウジノワキイラツコノミコト)と関係があるんですね!
莵道稚郎子命???
誰の事かと言いますと・・・応神天皇(おうじんてんのう)の息子さんである
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の事なんです♪
彼は古墳時代の皇族のひとりです
そんな、菟道稚郎子が、この宇治という地で道に迷ってしまった時に助けてくれたのが
・・・この一羽の兎だったんですね♪
後ろを振り帰りながら、菟道稚郎子を気遣い、親切に道案内してくれたという伝承から
『みかえり兎』と呼ばれ、後に神の使いと呼ばれるようになったんですね。
そんな古墳時代の皇族であり、応神天皇の息子である菟道稚郎子は
一体どんな人だったのかと言うと・・
( ´Д`)とっても、悲劇の人なんですよね~。
ある日、菟道稚郎子は
お父さんである応神天皇から
「次の天皇はお前に任せるぞ」と言われたんですね
普通なら喜ぶはずですけど何故か・・複雑な菟道稚郎子
どうしてかと言うと
彼は儒教の思想を学んでいたので
天皇は長男が後を継ぐもの。という考えがありました。
そうなんです。
彼には異母兄がいたんですね。
それが
・・・仁徳天皇(にんとくてんのう)
そうです、世界で一番大きな古墳、大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)のアノ人です。
お兄ちゃんを差し置いて、僕が天皇になるワケには行かないと悩み
結果的に3年間も兄弟で譲り合いをした結果、人々は戸惑い天下は乱れたと言います。
これじゃダメだ・・・埒が明かないや・・と思った菟道稚郎子は
自らの死をもってお兄ちゃんに皇位を譲ったんですね。
( ´Д`)なんて優しい人なんだ。。。菟道稚郎子。。
こちらは拝殿になります。
ちなみに、宇治神社のある、この一帯は、その昔
菟道稚郎子の邸宅があった場所とされています。
死後、彼の霊をこの地に祀ったのが宇治神社の始まりなんです。
宇治(うじ)という名前や地名に関しても、菟道稚郎子の『菟道(うじ)』が起源になったとも言われています。
こちらは、境内にあります2つ目の鳥居。
さて、この鳥居に鎮座するのが・・
二匹の狛犬!
ちなみに、この宇治神社には『木像狛犬』と呼ばれるモノまであります。
※現在は宇治市歴史資料館に預けられています。
残念ながら、写真は無いんですけれど
この『木像狛犬』は
鎌倉時代前期の作品で、木像の狛犬では最古と言われているんですね♪
こちらは拝殿です。さらに奥に本殿があります。
中には、御祭神である菟道稚郎子命の等身大の木像が安置されているとの事です。
さて、最後に紹介したいのが、こちらの歌碑。
百人一首にも収録されている喜撰法師(きせんほうし)の句です。
『わが庵は 都のたつみしかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり』
と書かれています。
彼は平安時代の僧・歌人の一人なんですね。
ちなみに、この句の『うぢ』というのは、喜撰法師の庵のあった『宇治』と『憂し(うし)』という言葉を掛けているんですね。
『憂し』とは、情けないとか、辛いという意味を持ちます。
この句を翻訳してみると・・・
『ワシの住んでる庵は、都の東南にあり、そこでひっそり住んでるんだけど
俺の事をみんなは、情けないヤツだなんて言うんだよ。。まったく。。』
となるんですね。
提灯をパシャリ♪
世間の人は、都から離れて暮らす喜撰法師の事を、どうやら
辛くて逃げ出したんじゃないか?だの
情けないヤツだ
世の中を疎ましく思ってるヤツなんじゃないか?と言っていたようで
いちいち、そんな事で噂したり、勘繰ったりしている世間を
軽く批判する形で、宇治に住んだ喜撰法師は歌にしたんですね。
そんな宇治にあります、宇治神社の場所はコチラ↓
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