こんにちは京子です。
さて、本日ご紹介する神社は
短歌や俳句をやってらっしゃる方必見
文章上達のご利益がある神社・・
新玉津島神社(にいたまつしまじんじゃ)です♪
平安時代~鎌倉時代前期の歌人である
藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい)によって作られたこちらの神社。
1186年、後鳥羽天皇の勅使により藤原俊成の邸宅内に
紀州(和歌山)の玉津島神社に祀られている衣通郎姫(そとおりのいらつめ)を勧請したのが始まりです。
神様を京都に持ってきたってワケですね♪
ちなみに、藤原俊成の息子というのが
あの、百人一首を選定した藤原定家(ふじわらていか)なんですよね~
歌人一家ってコトが分かってもらえると思います。
※藤原定家については常寂光寺の記事を是非ご覧下さい。
さてさて、それから遡ること3年前・・・
後白河法皇(ごしらかわほうおう)の命により
藤原俊成の邸宅を和歌所(わかどころ)とし、彼に千載和歌集(せんざいわかしゅう)の編纂をさせていたんですね。
千載和歌集とは短歌を中心に1280首余りが収録されている和歌集です。
この千載和歌集に一首収録されているのが
平忠度(たいらのただのり)の歌なんです。
早速、境内に入ってみましょう♪
こちらは境内にある末社の『天満宮』と『秋兼神社』です。
この頃、丁度
1181年に平清盛が病死し、源氏が平家討伐へと動き出し
源義仲(みなもとのよしなか)が京都へ攻め入ります。
この時、標的となったのが平忠度なんですね。
彼は清盛の異母弟でありました。
源義仲により、平忠度を含む平家一門は都落ちするコトとなります。。
いっせいに京を離れ逃げ延びる平家一門。
京を離れ逃げていた平忠度は、危険を承知で
突如、京へと引き返すんですね!
そうです、源義仲のいる京都へ
彼が向かった先というのが・・・
藤原俊成の邸宅であった和歌所でした。
境内には、歌もいくつか額に入れて掲げられていました。
こんな大きい石なんかもありました。何か伝承があるかもしれませんね~。
平忠度は、そこで千載和歌集を選定していた
藤原俊成にひとつの歌を託す事となるんです。
『さざなみや 志賀の都はあれにしを むかしながらの 山ざくらかな』
都はすっかり荒れ果てしまったけれど
長等山の桜は昔と変わらず綺麗に咲いていると読まれた
この歌に感銘を受けた藤原俊成は
千載和歌集に載せる事となりますけれど
当時、平忠度は朝敵扱いとなっていた為
『読み人知らず』としてこの歌を掲載したんですね♪
なんだか切ない話ですね・・・(泣)
※ちなみに、平忠度はその後、1184年の一ノ谷の戦いで戦死しました。
さて、その後荒廃しますけれど
江戸時代には北村季吟(きたむらきぎん)が宮司を務め復興に成功。
彼は松尾芭蕉の師と言われている人物で
7年間ここで、宮司を務め、その後江戸に渡り、幕府の役人として働き
幕府の歌学方(かがくかた)になります。
※歌学方とは和歌に関する学問をつかさどる役職なんですね。
鳥居の前には、その栄光を与えるように
『北村季吟先生遺蹟石碑』という碑が建っているんですね~。
歌人にゆかりのある神社で
短歌、そして俳句の上達成就にご利益のある
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