こんにちは京子ですっ。
さて、本日ご紹介する神社は・・・
![繁昌神社](2011/06/08/01/2011-06-08-1.jpg)
繁昌神社(はんじょうじんじゃ)です!
さて、この繁昌神社の始まりはと言いますと
![繁昌神社](2011/06/08/01/2011-06-08-3.jpg)
平安時代、この地に藤原繁成という人物の邸宅があり
その庭には功徳池(くどくいけ)と呼ばれる池があったそうで
池の中の島に弁財天などを祀ったのが始まりです★
※弁財天は七福神の一人で紅一点の美女の神様ですよ~。
この事から、明治期までは功徳院と呼ばれていましたけれど
神仏分離令により、神社だけがこの地に残ったというワケです。
![繁昌神社](2011/06/08/01/2011-06-08-5.jpg)
さて、この繁昌神社は読んで字の如く
商売繁盛(繁昌)のご利益があるんですね~!
![繁昌神社](2011/06/08/01/2011-06-08-2.jpg)
これは、この神社の名前や、弁財天は『財』という字から
財産を得られるという意味もあるそうです。
しかーし!!その昔は
その昔『班女神社(はんじょじんじゃ)』と呼ばれていたそうなんですね。
これが訛って
・・はんじょじんじゃ
・・はんじょうじんじゃ
・・・繁昌神社!!に変えられたと言います。
※他の説では、弁財天の事を針才女(はりさいじょ)ともいい、それが変化し繁昌神社となったとも言われています。
![繁昌神社](2011/06/08/01/2011-06-08-4.jpg)
境内はとてもコンパクトです。こちらは拝殿ですね。
この理由として、
班女神社となっていた頃に
「どうやったらお賽銭もっと入るかなぁ??」と考えた結果
・・・じゃぁ繁昌(繁盛)にしたら、縁起も良いし
商人のみんなが、じゃんじゃんお賽銭くれるんじゃないかな!?
となったそうです。
秀吉の時代には、すでにこの辺りは「繁昌町」と呼ばれるようになり
班女神社から繁昌神社と改名されたと言います。
ではでは、更にもうひとつの疑問。
じゃぁ『班女神社』ってのはドコから来たの!?かと言いますと
ここで登場するのがコチラっ。
![繁昌神社](2011/06/08/01/2011-06-08-6.jpg)
班女塚(はんじょつか)です。
これは、繁昌神社とは少し離れた場所になり
神社から北上し、少し西に曲がるとある塚です。
丁度、繁昌神社の裏手辺りになるんですかね、歩くと5分ほどです。
ここで出てくるのがある伝承なんです。
『こぶ取り爺さん』や『わらしべ長者』などの話も収録されている
鎌倉時代に書かれた説話集『宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)』に
書かれているあるお話です。
その昔、この辺りに一人の女性が住んでいました。
家柄も良く、宮中に仕える仕事をしていたんですけれど
ある時、病気にかかってしまい外へと出歩けなくなってしまい
自宅で死んでしまう事となるのです。
![繁昌神社](2011/06/08/01/2011-06-08-7.jpg)
塚の側には祠もありました。
![繁昌神社](2011/06/08/01/2011-06-08-8.jpg)
住吉姫松と書かれた石碑。
![繁昌神社](2011/06/08/01/2011-06-08-9.jpg)
班女塚のある場所もは所々に柵が建てられています。
彼女に身近な人たちは
死んでしまった彼女を棺に入れて、荷台へと積み、墓地へと運び出すんですね。
墓地に到着し棺を下ろそうとすると
・・おや?棺が軽い?
よく見ると、棺の蓋も開いている事に気付きます。
そうなんです、中の遺体がどこかへと消えてしまったんですね。
不思議に思い
彼女の自宅へと戻ってみると、なんとそこには遺体が。
まるで、ここを動きたくないよと言っているようではありませんか。
どうやら、結婚はしていない彼女でしたけれど
時々、病気を患った彼女の為に自宅にまで通ってくる男がいたらしく、彼と離れたくなかったのでしょう。
遺体をいくら動かそうとしてもビクとも動きません・・・。
この事から
彼女をこの地に埋め、塚が立てられたというワケです。
そして、塚を祀る神社として班女神社が出来ましたと言われています。
ちなみに、秀吉が一度、神社を移動させた事もありましたけれど祟りがあり
また元の場所に戻されたとも言われています。
やっぱり班女が移動するのを嫌がったんじゃないでしょうか?
そんな繁昌神社の場所はコチラ↓
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