こんにちは京子です
さて、本日ご紹介するお寺は・・・
瑞光院(ずいこういん)です。
さて、この瑞光院にゆかりがある人物というのが
忠臣蔵でおなじみの
赤穂浪士と 浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)です♪
瑞光院は現在、京都の山科にありますけれど
創建当初(1613年)は京都御所の近くにあったんですね。
※山科の地に移転したのは1962年の事です。
ちなみに、瑞光院が建つ前は何があったのかというと
豊臣秀吉の家臣である
浅野長政の別邸だったんですね。
ここでピンと来る方もいらっしゃるかもしれませんが
その浅野長政の末裔にあたるのが
浅野内匠頭長矩なんですよね~♪
さて、ここで浅野内匠頭長矩が起こした有名な
松の廊下事件(まつのろうかじけん)に端を発する一連の赤穂浪士の討ち入りをお話しながら境内をご紹介したいと思います。
時は元禄14年(1701年)。
江戸城にて、勅旨に対して
徳川将軍が奉答するという「勅答の儀」が執り行われるはずだったのに
勅旨を接待する役だった
浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に
突然切りかかりました
これが松の廊下事件です。
こちらは浅野稲荷神社。かつては「朝野稲荷」という名前でしたが、浅野長政の別邸の地にあった事から「浅野」と読み替え鎮守されたそうです。
何故、浅野内匠頭長矩は、吉良上野介義央を斬りつけたのか?
という理由ですけれど様々な諸説があります。
・浅野が適切な指導料を吉良に納めなかった為、吉良が浅野を苛めた。
・赤穂の塩田の技術を教えるように吉良が浅野に迫ったけれど断られた。
・浅野の小姓を吉良が所望したが断われた。
本当の理由は今となってはわかりませんが
とにかく、切りつけてしまった事は大変な事件であり
時の将軍、徳川綱吉から浅野匠頭長矩に対して切腹命令が下ります!!
※逆に、斬られた吉良上野介義央には何のお咎めも無しでした。
そして、幕府からお家断絶を言い渡され赤穂藩は解体。
浅野家は断絶します
その、赤穂藩の筆頭家老であったのが
・・・大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお)なんですね♪
大石内蔵助良雄は瑞光院に浅野内匠頭長矩のお墓を建てました。
※瑞光院の住職であった陽甫(ようほ)は、浅野匠頭長矩の奥さんの遠縁に当るそうです。
その後、大石内蔵助良雄は墓参りの度に
この瑞光院で同士らと討ち入りの密議をしたとも伝わります
赤穂藩を離れた、その後、京都山科に居住を構えたと言われています。
赤穂浪士の討ち入りに関しては
過去にも山科義士まつりの際に
京子ブログでじっくり解説していますので、そちらをご覧下さいね♪
元禄15年12月14日、吉良邸討ち入りを決行した47人の赤穂浪士。
見事、吉良の首を取りますけれど
その責任を取り
四十七士のひとりである
寺坂吉右衛門信行(てらさかきちえもんのぶゆき)を除く
46人が切腹の命を受けました。
手前には浅野内匠頭長矩のお墓。
その隣には、46人の名前も刻まれた遺髪塔があり
それらの回りを赤穂浪士(46人)のひとりひとりのお墓が囲む形で配置されています。
※瑞光院では、江戸に僧を派遣し、浪士たちの切腹が行われる2日前にマゲを貰い持ち帰っていたんですね。
この浪士たちが、浅野内匠頭長矩の墓を取り囲んでいるだけで、なんだか胸に熱いものがこみ上げてきちゃいますね・・・!!
そして、この他にも境内にはこんなものもありました。
生前、大石内蔵助良雄が愛した梅の木があり
これは、それを記す石碑です。
赤穂浪士の一人である
小野寺十内秀和(おのでらじゅうないひでかず)の奥さんの招魂碑。
(招魂とは死者の魂を招く事です。)
夫の後を追い、自らも死を選んだんですね。
その魂を、この地にその魂を呼び寄せたという事なのでしょう。
そんな赤穂浪士と浅野内匠頭長矩ゆかりの瑞光院の場所はコチラ↓
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