こんにちは京子です
さて、本日は、石川五右衛門の「絶景かな、絶景かな」で有名な
南禅院(なんぜんいん)です。
さて、こちらの南禅院。
ドコにあるのと言いますと
南禅寺の境内にある
こちらの水路閣を超えた先に、あるんですね~
水路閣を超え階段を上がると
先ほどの門が見えてくるというワケです
通常、こちらの門は閉まっているので
案内通りに
左手にある入り口から南禅院の境内へと入っていきます
南禅院はもともと亀山天皇の離宮だった場所でした
つまりお家だったという事です~。
亀山天皇は南禅寺を作った事でも有名で
南禅院も、南禅寺と同じく1291年に創建されます。
南禅院はその後、応仁の乱で荒廃しました。
方丈は、1703年に徳川綱吉の母、桂昌院(けいしょういん)によって寄進されれたものです。
中には、狩野常信筆の襖絵「柳鶯図」があるそうですよ。
さて、南禅院を建てた亀山天皇は
一体どんな天皇だったんでしょうか
亀山天皇は鎌倉時代の天皇です。
江戸時代の頃の朝廷というと
幕府の管理下に置かれているイメージがありますけど
この頃の朝廷と幕府の関係はちょっと違うんですよね~
朝廷と幕府という勢力が2つあると思った方がイメージしやすいです。
こちらは方丈の一部です。その隣にはと言いますと・・・
一山国師塔があります。
こちらは「元」から来た一山一寧(いっさんいちねい)という
南禅寺の住職も勤めたお坊さんの供養塔です
一山一寧は元から「朝貢しませんか?」という国書を持って日本へやって来たのですが、数年前に日本は元から2度の襲撃(元寇)を受けていて、元からの使者を警戒していたんですね。なので、一山一寧は伊豆修禅寺で幽閉される事となりますけど、そこでの修行が認められ名僧としてお寺を渡り歩き、後に上洛し南禅寺の住職となりました。
そんな鎌倉時代の天皇である亀山天皇。
彼のお父さんである後嵯峨天皇は
なんと、朝廷が二分する事なった南北朝時代のきっかけを作った人でもあるんです。
後嵯峨天皇には2人の息子がいました。
それが兄の後深草天皇(ごふかくさてんのう)
と
弟の亀山天皇なんですね。
最初は、後嵯峨天皇は兄の後深草天皇に皇位を譲り
自分は上皇となって政治(院政)を取り仕切ってました
※後嵯峨天皇は上皇となり、名目上「後見人として天皇をサポートする」という立場を利用しました。
しかし、後嵯峨天皇は後深草天皇よりも弟の亀山天皇の事を可愛がり
兄から皇位を取り上げ、亀山天皇にやらせる事となります。
後深草天皇は在位も短いまま譲位するんですね
そして、後嵯峨天皇は次の上皇を決めないまま
崩御しちゃいます。
これがマズかったんですよね・・。
揉めたのは、残された2人の兄弟
そりゃそうです
まずは
兄である後深草天皇が院政をとる事となりました。
こちらは受付の向かって左手にある庫裏(くり)です。
後深草上皇は
自分のしたいように、どんどん権力を行使し始めます。
その後、徐々に弟の亀山天皇と反りが合わなくなり
兄弟喧嘩が勃発
「次の天皇はどっちから出す!?」
「オレから!」
「いいや、お前はだめだオレからだ!」
亀山天皇からすれば、自分の選んだ中から天皇を出し、上皇になる事を狙っていたのです。同じく、後深草上皇も息のかかった天皇を出し、この後も権力を握りたいと考えていました。
どっちも上皇がやりたいという理由から
天皇をどちらから出すのか揉めたんですね
皇族内で喧嘩しちゃってるもんですから
誰も止める人がいない・・・・
そこで、鎌倉幕府が仲裁に入る形で10年ごとに天皇を交代し南北2つの系統が出来ました
南朝・・大覚寺統(だいかくじとう)by 亀山天皇チーム
北朝・・持明院統(じみょういんとう)by 後深草天皇チーム
しかし、こうして二分されてしまった事により・・その後、後醍醐天皇がきっかけとなって、南北朝時代がスタートする事となるんですね。
亀山天皇の離宮であったという事もあり
亀山法皇廟所(かめやまほうおうびょうしょ)がありましたよ
しかし残念ながら、これ以上中に入る事は出来ず、残念です。
※亀山法皇廟所は皇族なので、宮内庁の管理なんですね。
亀山法皇と書きましたけれど
後に亀山天皇は出家し、お坊さんになります
っとここで
音声ガイダンスがあったので聞いてみました。
そこで、面白いお話をひとつ聞かせてもらったんです。
亀山天皇の住んでいる離宮では、夜な夜な
変な出来事が起こっていたんですね。
突然襖が開いたり・・・
亀山天皇のお世話をしていた人が
妖怪の騒ぎだと言い出したのです
解決しないといけないと思い、亀山天皇が頼んだのが
無関普門(大明国師)というお坊さん
彼はこの離宮で
2時にお粥を食べ
「禅宗」の作法に習い、4時に坐禅を組んだだけで
・・・あら不思議
妖怪の仕業が治まったと言われています
これらの出来事から、亀山天皇も禅宗に帰依する事になり
大明国師は南禅院の開祖になります。
※公家の間にも禅宗が浸透する事となりました。もちろん、南禅院も禅宗のお寺です。
さて、方丈の前にはお庭も広がっていました。
池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)
この池を中心にぐるっと回って
景観を楽しむ事の出来る庭園です。
こちらの庭園は
「京都三名勝史跡庭園」のひとつにもなっていまして
南禅院の庭園以外には、天龍寺と苔寺の庭園がそれにあたるんです。
※デザインは亀山天皇、自らおこなっており作庭は夢窓疎石(むそうそせき)が行ったと言われています。
現在は枯れていますが、ここを通り、池へと水が流れていたそうです。
ちなみに、京都には
沢山の名園がありますけど
「鎌倉時代の名園」と呼ばれるのは南禅院のお庭だけだそうです。
確かに、時代別で考えると、鎌倉時代のお庭というのは珍しいのかもしれないですね~。
そういう意味では、なかなかレアなお寺だとも言えます
そんな南禅院の場所はコチラ↓
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