こんにちは京子です
さて、本日は、江戸時代「大奥」を築いた
春日局(かすがのつぼね)ゆかりのお寺である・・・
麟祥院(りんしょういん)です
現在、期間限定で公開中との事でこちらをご紹介させて頂きます
ちなみに、麟祥院の名前は、春日局の戒名である「麟祥院殿仁淵了義尼大姉」から取られました。
さて、まずはじめに
ドラマや映画でも、数年前話題となりました「大奥」は江戸時代に登場したものです。
初代将軍である家康の頃からその名前はあったそうですが
2代目の秀忠の時に
幕府の政庁・窓口が「表」
将軍が政務をするのが「奥」
私生活の場を「大奥」へと完全に分け
以後、大奥は春日局によって取り仕切られ
その後、数千人という女性を
抱えるようになったんですね~。
大奥に上がる女性の主な仕事は、将軍の夜のお供です。
将軍の世継ぎを絶やさず
一人でも多くの子を産ませる事を目的とされ作られました。
そして、大奥があれば将軍が、その辺の町娘と
関係をもったりする事を防ぐ事も
もし、仮に町娘と将軍が関係をもっちゃって・・・
それが跡取り(次期将軍)になろうもんなら大変ですよね
そして、正室、側室以外にも
将軍のご飯をお世話をする女性や、着替えさせる女性まで
細かい仕事も含め、様々な女性が大奥にはいたんですね
また、大奥の中の女性同士の派閥争いもあったとされる女の園でした
まずは、麟祥院のこま札チェック。
こちら麟祥院は、妙心寺の塔頭にあたり
妙心寺境内の中に建てられています。
※東京にも同名のお寺があります。もちろん妙心寺の塔頭です。
春日局と言えば!
大奥作り以外にもとーっても重要な事をした女性なんです
2代目将軍「秀忠」と、お江との間に2人の男の子が生まれます。
それが「竹千代(たけちよ)」と「国松(くにまつ)です。」
お江とは
現在放送中の大河ドラマ「江(ごう)」の主人公であるお江の事ですよ~。
位の高い女性は
自分で子供を育てる習慣は無く、先に生まれた竹千代は
春日局が育てる事となるんですね。
※母親の代わりに子供を育てる人を乳母(うば)と言います。
その次に生まれた国松は
お江自らの手で育てる事となりました。
ちなみに、麟祥院の始まりは春日局の実の息子さんが亡くなった際に母親である彼女が幕府に許可を得て建てられた事が始まりです。
門を潜りますと、左手には
庫裏があります。
お坊さんの住居場所で、食事の準備などの場でもあります。
そして、真っ直ぐ歩きますと・・・
こちらから更に奥へ行く事が出来ます
さて、竹千代と国松という2人の息子。
いつしか・・・
春日局&竹千代チーム
VS
お江&国松&お父さんの秀忠チーム
と、世継ぎに関して対立するようになったと言われています。
しかーし
その世継ぎ問題にピリオドを打ったのが、この人っ。
おじいちゃんにあたる家康
「孫の顔が見たくなった」と言って皆の前にあらわれた家康。
そこで、竹千代と国松が呼ばれますが
家康はまず竹千代を呼び寄せ
隣に座らせます。
すると、国松も同じようについて行こうとすると・・・
家康がここで国松にビシっと言うんですね
「国松!礼儀をわきまえなさいっ。
竹千代はあなたの兄ちゃん、であり世継ぎとなる身。
国松はその臣下となる身
お兄ちゃんと一緒に並ぶとは許されませんぞ!」
そして、二代目将軍「秀忠」を見て家康は
「竹千代は良き将軍になる事であろう」と告げたそうです
そうです、竹千代とは
後の三代目将軍「家光」の事なんですね。
やっぱり家康には
誰も逆らえないという事でしょう~
竹千代を育てた春日局に軍配が上がったというワケです。
ま、どっちもお江の息子には変わり無いんですけどね
ちなみに、春日局の父親は明智光秀に仕えていた斎藤利三。
お江の父親は、浅井長政。
・・どちらも織田信長を裏切った人を父に持った女性。
そんな2人が徳川幕府の重要ポストにいて
多大なる貢献をしたのですから
人の人生ってホントわからないもんですよね。
こちらが、その奥に進むとあります方丈(ほうじょう)です。
この方丈には6つの部屋があるそうで
現在公開されているのは、その中の3部屋という事です
麟祥院を建てるにあたり、春日局は
恩人である海北友松の子、海北友雪(かいほうゆせつ)に
襖絵を描かせたんですね。
どうして、海北友松が恩人だったのかと言うと
春日局の父親の斉藤利三は山崎の戦いの後、豊臣軍により殺され晒されちゃうんですね。しかし、彼と親交の深かった海北友松は、それを見かね首を引き取り、真如堂にちゃんと弔らってあげたんですね。
春日局はその恩を返すために
友松の息子、海北友雪に麟祥院の方丈の襖絵を描かせたそうなんです。
・・なかなか、義理堅い人ですね春日局
絵師にとって、お寺の襖絵を描く事は大変名誉だそうで
友雪は喜んでこの仕事を引き受けたと言われています。
それが方丈の「室中の間」にあります。
海北友雪「雲龍図」
あ、立て看板ですみません・・撮影禁止だったもので(泣)
この雲龍図、面白いのが「対」になって描かれているんですよね
そうです、つまり龍が2匹いるんですけど。
なんとその2匹の龍はオスとメスなんです。
この、看板に描かれている龍、よーく見ると角が垂れていますよね
これがメスだそうで、雲龍図にはもう一匹、角がバシっと立っているオスも描かれていましたよ。
昔は、この龍を描く為に100枚ほどの襖を使って
どーーんと龍の全身が大迫力で描かれていたそうで
境内も昔はもっと大きかったそうです。
しかし、残念な事に廃仏毀釈によって方丈の規模が縮小してしまい現在では、龍の全身の絵は見れず見れるのは、龍の頭の部分だけなんですね。
こちら方丈前に広がるお庭です。
春日局の旦那さんの稲葉氏も城主した「淀城」。そこから移された鯱がお庭にありました。
こちらの墓地には稲葉氏のお墓がありました。
ここで、またまた大奥の話をさせていただきますと
どんな感じだったのかと言うと・・・
基本的には江戸城内の外へ出る事は許されない~出られるのは休みの日だけで勤続年数3年で、たった6日しか貰えません(汗)
しかも、将軍の寵愛を受けちゃうと
一生出られなかったりするんです
なので、幕末の皇女「和宮」が降嫁し徳川家へと嫁いだ事で、尊王派が怒ったのも頷けますよね。もう一生出れないワケですからね。
自分の息子が将軍に選ばれたらサイコ~
大奥には多くの女性がいます、将軍は沢山の側室を持ち子をもうけます。
実際、歴代徳川将軍の中でも、正室(御台所)が世継ぎの男の子を産んだのはお江だけで、それ以外の歴代将軍はすべて側室の女性が産んだんですよね。
将軍の子を産み、それが次期将軍になってしまったら
その女性はもちろんの事、その家族まで恩恵が受けられるんですね。
お給料も沢山もらえるんです
なんと、大奥のトップは現在に換算すると年収3000万円ほどなんですって
江戸城の外に出れないといっても、やはり大奥入りする事は
女性にとって、とても恵まれてる事だったようです。
さて!方丈から歩くと次に見えるのが
春日局を祀る「御霊屋(おたまや)」
この中には「春日局像」が安置されています。
微笑んだ顔をした、春日局の像で尼さんの格好をしています。
実は、この姿は春日局が天皇と謁見した際の姿だったそうです。
どうして、彼女が天皇と謁見したのかと言うと・・・
紫衣事件(しえじけん)がきっかけとなります
朝廷と幕府が対立したこの事件。
紫衣とは、紫色の法衣や袈裟(けさ)の事で
朝廷が幕府に内緒で、紫衣を着る許可をお坊さんに与えた事件です。
※幕府では法度を朝廷やお寺に出し、こういった事を禁止していました。朝廷はそのルールを破っていたというワケです。
こちらの「三」は「折敷(おしき)に三文字」と呼ばれる春日局の夫、稲葉氏の家紋です。折敷とは、簡単に説明しますと四角形のとがった部分を削った形です。
幕府は、もう紫衣は全部一旦破棄しなさい
と、伝えます。
朝廷側、それに加え、お寺からも
幕府に反抗し
・・完全に対立しちゃうんですね
その中には
あの、たくあん漬けを考案したお坊さんとされる
「沢庵宗彭(たくあんそうほう)」もいました。
しかーし!
幕府は、抗議したものを流罪にまでしちゃいます
この出来事から
「たとえ、天皇といえども幕府の決めたルールには従いなさい」という事を、明確にしたんですね。
朝廷と幕府のぎくしゃくした関係を修復させようと
ひと肌脱いだのが・・・
春日局だったんです。
門を潜ってすぐ右手にある春日稲荷。最近鳥居が新しくなったみたいですよ。
ただ、大奥の女性のままでは
天皇に謁見する事は出来ない(位が無い)ので
お江の娘(東福門院)であり天皇の奥さんだった彼女の力を借りました。
そして
公家の三条西実条(さんじょうにしさねえだ)という人の妹という事にして謁見できる官位をもらいました。
この時に「春日局」という名前を朝廷からもらったそうですよ~
うーん、優雅な名前だと思ったら
そういうことだったんですね
ちなみに・・・
それまでは福(ふく)という名前でした!
(・∀・)ノなんだか親近感が一気に湧いちゃうカワイイ名前ですね。
そんな春日局ゆかりの麟祥院の場所はコチラ↓
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