こんにちは京子です
さて、本日は世界遺産のお寺っ
西本願寺です
ちなみに東本願寺とどういう関係があるの
と、言いますと
元々はこの西本願寺ひとつだったんですね
つまり、こちらが主流というワケです。
なので、西本願寺と呼ばれていますけど
これは通称で・・・
正式名称はズバリ「本願寺」です~
さて、本願寺とは始まりは何だったのかと言いますと
鎌倉時代のお坊さんであり
浄土真宗の開祖である親鸞(しんらん)が90歳で死んでしまい
その廟堂(大谷本廟)から発展したお寺なんですね
※廟堂(びょうどう)とはちなみに霊を祭る所です。
そして、浄土真宗本願寺派の本山でもあります
その後、本願寺から分かれて出来たのが東本願寺であり、この分かれた経緯に関しては以前、京子ブログで書きました東本願寺をチェックしてみてください。
ちなみに親鸞ってお坊さんは浄土真宗の開祖って事ですけど
どんなにスゴい人なのかと言いますと・・・
1201年、親鸞上人は
聖徳太子の建立した六角堂に百日参籠を始めたそうです。
参籠というのはお寺にこもる修行の事ですね
こちらは阿弥陀堂(本堂)です。東西42メートル、南北45メートル、高さ25メートルもの巨大な伽藍です。
実は、この六角堂にこもった事件
当時、お坊さんは女性と関係を表立って持つ事は禁止されていました。
でも・・・持ちたい
と親鸞は悩んでいたんですね。
もうその思いが夢に出てきて・・
観音様が出てきて
「その、お前の悩みを取り去ってやろう」
※この事は親鸞夢記という書物に書かれているそうです。
って事で、このお告げを聞いて親鸞は
あ、やっぱ良いんだ!!!
師匠の法然もOKを出して
なんと妻帯持ちとなりましたっ。
これは当時としてはスゴい事で
表立ってお坊さんが妻を持ったのは親鸞が初めてだったと言われています。
そんな親鸞上人が説いた、有名な言葉と言えば
「善人なほもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
これは分かりやすく言うと
善人ですらこの世を去って極楽へ行けるのだから、悪人は言うまでもなく極楽へ行ける
と、いう事だそうです。
(・∀・)ノうん、超ポジティブ思想ですね。
ここで言う「悪人」とは
「あー。。オレすんげぇ悪い事しちゃったな、悪人だぜオレって」
って思ってる人の事です。
つまり!それに気付いた時点で・・
彼はこう説きます。
善人だと思っている人は身の程知らず。
・・・つまり自分の悪い事に気付けない人
そんな人が極楽に行けるんだから
自分の罪を認めている悪人こそが極楽浄土に行けるんです
そんな親鸞上人の教えは、農民、町民、武士に広がるんですね
浄土真宗は本当にスゴくて
今から400年以上も前に石山本願寺において行われた
「石山戦争」でも、
織田信長を苦しめたのが
浄土真宗本願寺勢力だったんですね。
浄土真宗本願寺勢力とはつまり
・・・浄土真宗の信者であり、農民、町民を中心とした一向一揆だったんです!!
さて、京子は堀川通りに面している御影堂門から
入ったんですけど
本来なら正面に、どどーーん!と
御影堂(ごえいどう)が見えるハズなんです。
こちらの前に現在、親鸞聖人750回大遠忌法要に向けて
特設舞台や参拝席を建設中という事で
・・・幕で覆われていて残念ながら
良い写真が取れませんでした(汗)
この御影堂門の右手に、先ほどの阿弥陀堂があります。
これらは渡り廊下で繋がっているんですね
そして御影堂門の左手には何があるのかと言うと
龍虎殿(りゅうこでん)です。
こちらは受付があったり、2階には読経所があったりするんですね。
近代に建てられたものという事です
そして!
龍虎殿のその奥にあるのが
書院(しょいん)
こちらは国宝ですね。
この中は、「対面所」と呼ばれる部屋があり客人の接見に使われていました。上段と下段に分かれているその大広間。下段は162畳もある広さもあるんですよ~。
そして書院の中には、その対面所を取り囲むように
「雀の間」「雁の間」「菊の間」など様々な部屋があり
どの部屋にも、天井から襖に至るまで
絵や彫刻が施されているようです♪
そして、書院のすぐ側には唐門がありました。
境内側から撮影しています。
こちらも国宝っ!
もちろん、この門を開けて通行する事は出来ませんけれど
それにしても色鮮やかですよねっ。
極彩色とはまさにこの事!!
一説には西本願寺の唐門の麒麟が
麒麟ビールのロゴになったと聞いた事があるんですけど
詳しい方がいたら教えていただけると幸いです
ほかにも孔雀や、虎など素敵な彫刻が施されていてこれほど豪華で精巧で見事な門を眺めていたら時間が経つのも忘れてしまうことから別名「日暮らし門」とも呼ばれています。
唐門の隣には大玄関門があり、その向かいにはこちらの建物があります。奥は書院と繋がっているんですね。
さて、この西本願寺
新撰組ゆかりのお寺としても有名なんですよね~っ。
と言いますのは
この西本願寺は新撰組の屯所だったんです!!
当初、新撰組が結成された際には
旧前川邸と八木邸が使われていましたけれど
新撰組の名を京都に轟かせ、一躍スターダムに押し上げた
池田屋事件
その後、どんどん新撰組の人数は増えて行き
その数200人以上になったんですね。
境内、南側に位置する飛雲閣のすぐ側にある鐘楼。色鮮やかで素敵♪
そこで、こちらの西本願寺に屯所が移されたという事なんです。
そりゃぁもう、土方歳三も近藤勇もノリノリだった事でしょう~
池田屋事件においても幕府から、莫大な恩賞が与えられ
組員も増えて、まさに絶頂の頃でしたからね。
もともと、土方歳三も近藤勇も沖田総司も
時の将軍である徳川家茂の上洛に合わせて
京都の将軍警護の仕事をする為に田舎から出てきたんですよね。
紆余曲折ありましたけれど
新撰組は歴史上最大最強の剣客集団の名を欲しいままにし
近藤勇らは旗本にまで取り立てられるんですから
超サクセスストーリーと言っていいと思います
新撰組の屯所には西本願寺内の「北集会所」と「太鼓楼」という建物を使っていました。
※現在、北集会所の方は姫路の本徳寺に移築されています。
さて
新撰組のお話は一旦置いておいて
その屯所に使われた「太鼓楼」の前にある
安穏殿はブックセンターと呼ばれていて
中には本願寺が出版している本などが置かれていますけれど
その前にあったのが・・・
重要文化財である梵鐘
ただの梵鐘じゃあーりませんっ
この鐘は平安時代のもので、広隆寺から買ったものなんですね。
その値段、2300貫文だという事ですっ。
うーん、高そうですけど・・・
実際、どれくらいの価値だったか
と言いますと
秀吉が信長に仕えた最初の給料が年収で15貫文なんですね。
ちなみに10年後、信長が尾張を完全統一した犬山城の落城。
この頃で秀吉の年収は、まだ600貫文っていうんですから
梵鐘ってやっぱり高いんですねぇ・・・・中古なのに(汗)
そして、こちらは、梵鐘の向かいにある
経堂(きょうどう)です。
よーく、看板を見てみると「転輪蔵」と書かれているんですけど経堂の中にはもちろん経典が納められているんですけど八面(八角形)の書棚が中にあるんですね。これがクルクルと回転するワケ!しかも、これを回転させるだけで経典を読んだのと同じご利益が得られると言われています。
さて、新撰組のお話に戻りまして
屯所のメインはどうやら「北集会所」の方みたいで
広さはなんと600畳もあったそうです。
そりゃ200人にも膨れ上がった新撰組ですしね~★
ちなみに、屯所ではどんな事をしていたかと言いますと
もちろん・・・
訓練
訓練
また訓練
あ、剣の練習ね・・・。
と、思われがちですけど
そればかりではないんです
柔術をしたり
それとっ
大砲の練習もしてたんですねー。
お寺らしからぬ風景だったんですよね(汗)
参拝客もいらっしゃるワケですから。。。
でも、どうして新撰組は西本願寺を屯所に使おうと思ったの?
と言いますと、
当時、長州藩が西本願寺を
隠れ家に使っていたりしてたそうなんですね。
影でバックアップをしていたみたいです。
しかーし!
あからさまにそれを西本願寺が言う事はなかったんです。
長州藩はもちろん、当時幕府の敵ですから
「長州藩とは何も関係ないなら使ってもいいだろう、文句は無いな!」
と土方歳三が掛け合い、強引に居座ったみたいです。
この事で、西本願寺を屯所に選ぶ事によって
長州藩を牽制する役割があったとも言われています。
うーん、やっぱり土方さん
頭のキレる人ですね~
そんな西本願寺の場所はコチラ↓
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