こんにちは京子です
さて、本日は・・・
豊臣秀次とその一族の菩提を弔う為に建てられたお寺っ。
瑞泉寺(ずいせんじ)ですっ
では、まず早速ですけれど
ん?
豊臣秀次(とよとみひでつぐ)って誰だっけ
と、思われている方もいらっしゃると思いますけれど
実はこの人
・・・なんと関白にまで出世した人なんですね
もちろん、豊臣という苗字から分かるように
秀吉と深~くかかわりのある人物なんですね
では、その豊臣秀次を中心に
瑞泉寺をご紹介したいと思います
さて、こちら瑞泉寺は
三条通りと鴨川の交わる位置にありまして
瑞泉寺の前には高瀬川が流れています。
鴨川にかかる三条大橋は旧東海道の西の起点であり都の入り口と呼ばれていたんですね~。
このあたりの鴨川の川岸は「三条河原」と呼ばれていて
処刑が行われたり、晒し首が置かれたりした場所なんですね~
ここで、どんな人がこの場で処刑になったかと言いますと関ヶ原で敗れた戦国武将の石田三成や盗賊の石川五右衛門ですね。
そして、晒し首になった人だと新撰組の近藤勇が有名ですよね。
もう、この三条河原の近辺に代々住んでいる一家は
数え切れない程の処刑や晒し首を見た事でしょう
そんな三条河原のお話は
頭の隅っこに置いておいて頂いて
こちらはこま札になります
さて、豊臣秀次は秀吉とは
一体どんな関係だったの?か、と言いますと
秀吉の甥にあたるのが秀次なんですね。
つまり、秀吉の姉である日秀(にっしゅう)の息子が秀次というワケです。
秀吉になかなか子供(世継ぎ)が生まれなかった事は
有名だと思いますけれど
秀吉が50歳を過ぎ、ようやく初めて淀殿との間に子供が生まれたんですよね
それが鶴松(つるまつ)です。
しかし、・・・3歳でこの世を去る事となります・・・。
これに秀吉は相当ショックだったそうで
秀吉「あぁ・・鶴松も死んでしもうて・・もう、アカン。ワシも、もう歳だし・・もう子供は出来ないんじゃないかのぉ・・」
秀吉にとって世継ぎ問題はなかなか頭を悩ませた事でしょう。
そんな、秀吉は
とうとう世継ぎに養子を取る事を決めたのです
その養子の話において
白羽の矢が当たったのが秀吉の甥である
豊臣秀次でした!
秀次の戒名である「瑞泉寺殿」から瑞泉寺の名が取られました。
さて、いきなり
養子の指名をされちゃった豊臣秀次。
彼はそれまで
どんな事をしてたの?と言いますと
賤ヶ岳の戦いに参加したり!
小田原征伐に参加したり!
秀吉の家臣として武功を上げていたんですね~
ちなみに、どのような人間性であったのかと言いますと
当時の宣教師「ルイス・フロイス」は
豊臣秀次の事を
「穏やかで思慮深い性質」だと
説明しています
って事は、しっかり考えてから行動する慎重派
イケイケ系の人じゃないって事は伝わってきますね~。
それなりの実績もあり、豊臣家の血が流れた甥である豊臣秀次。
秀吉は、彼にすべてを譲り渡そうと考えていたのでしょう。
養子に向かえ関白職を譲り、それと同時に
政庁兼、邸宅であった聚楽第(じゅらくてい)も
豊臣秀次に譲ったのですね
秀次からすれば
「やった~鶴松ちゃんが死んで俺のトコにいよいよ次期将軍の座が回って来たってコトじゃん」
・・と思っていた事でしょうし
実際、秀吉ももちろん
全てを譲るつもりだったんじゃないでしょうか。
( ´Д`)しかーーーーし!
大どんでん返しが起こっちゃいます。
それが・・・
鶴松が死去した2年後に
秀吉と淀殿の間に秀頼(ひでより)が生まれちゃうんですね
ちょっぴり、お話を瑞泉寺に戻しまして
境内に入り向かって左手の建物の1階には
秀次肖像画や、彼にまつわる
様々な歴史的資料が展示されています
そして右手へ行くと何があるのかと言いますと
本堂ですね
こちらには本尊である
阿弥陀如来像が安置されているという事だそうですよ~
さてさて!
秀吉も、子供を作る事は諦めかけていたんですけど
秀頼が生まれちゃったからさぁ大変。
養子にとった秀次への愛が
急速に冷めて行く事となるんですね
つまり、秀頼に世継ぎを任せたいので養子にとった秀次が邪魔になってきちゃったのです。
そして、なんと秀次は
秀吉に謀反の疑いをかけられます
秀次「え!そんな事・・・僕してません!叔父さん!僕は無実ですよーー!!」
と、釈明の為に、必死で秀吉の居る伏見城へ向かいますけど
・・・対面できず(汗)
そして、そのまま高野山に追放されちゃう事となります
出家をしたという事ですけど
なんと、その一週間後には切腹させられる事となるんですね。
出家までしたのに切腹させるのってなんだか強引・・・。
それだけで許さないのが秀吉
彼の妾、そして子供まで39人をことごとく惨殺・・・。
なんと、側室予定であった女性まで殺されるんですね(汗)
その女性は駒姫(こまひめ)で
まだ、予定であっただけなのに、処刑!!
彼女の家からは助命嘆願が出ていたんですけど
秀吉はこれを無視し処刑を命じます
当時の武家社会では、
女性は助かるのが一般的でした。
それにもかかわらず
秀吉は処刑しちゃうんですね(汗)
ちなみに彼女のお母さんはあまりのショックに自殺。
お父さんは、この時の悔しさから
関ヶ原の戦いでは東軍に属しています
その他、秀次の妾なども
尼になりこの処刑を逃れようとしますけど
無理でした!
・・・泣いても喚いても無理だったそうです
罪状も無いのに殺されていった人たちだったというワケです(泣)
ちなみに、こちらは本殿の向かいにあります、地蔵殿。
ことごとく惨殺した処刑場の近くに住んでた和尚さんは、この時、地蔵をわざわざ持ってきて殺された人たちが極楽浄土へいけるように弔ったというエピソードが残っています。
そのお地蔵さんが、こちらの
地蔵殿には安置されているとの事です。
そして、その地蔵殿の隣には
ありましたね!
こちらが豊臣秀次のお墓になります。
よーく、見ると両脇にずらーーーっと並べられているのが
惨殺された39人と、この時一緒に殉死した
秀次の部下10人の、合わせて49人全員のお墓です
高野山で秀次が自害したんですけど
秀吉は彼の首を三条河原に晒しちゃうんです。
そして
適当にその場に穴を掘り惨殺した39人と一緒に
一箇所にまとめて埋められ「秀次悪逆塚」と
記された塚が立ちました。
・・・とにかく、コテンパンにやっちゃった秀吉。
秀次は悪人と罵られ死んだという事なんです。
この塚は畜生塚と呼ばれ見向きもされる事なく放置され、それに加え、鴨川の氾濫などもあり荒廃し、この塚の事は忘れられるようになりました。
こちらは宝筺印塔(ほうきょういんとう)です。秀次とその一族の供養塔のようです。
しかし!
時代は流れ、慶長16年。
天下は徳川幕府の世となってから・・・
鴨川の側を流れる高瀬川を開いた
京都の豪商である角倉了以(すみのくらりょうい)が
この「秀次悪逆塚」と記された畜生塚を発見する事となります
そして、その当時のエピソードを聞き、哀れんだ角倉了以は彫られた「悪逆」の二文字を削り、秀次の戒名である「瑞泉寺殿」から名前を瑞泉寺とし、この地にお堂を構えたという事なんですね。
ん~、なんてグッジョブ!!!
角倉了以!!!
そんな瑞泉寺の場所はコチラ↓
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