こんにちは、京子です
さて、本日は・・・
あの京都を舞台にした長編物語である「源氏物語」を書いた
紫式部(むらさきしきぶ)の邸宅跡として大変有名なっ
廬山寺(ろざんじ)です
つまり、この場所で
あの源氏物語が書かれたという事なんですね~
うーん、なんだかそれを聞いただけで興奮してきましたっ
そんな歴史的な地に、京子は足を踏み入れたいと思います!
レッツゴーっ。
さて、中に入る前に、まずは
こま札をチェックしてみたいと思います
さて、こちらの廬山寺の開基は
良源(りょうげん)というお坊さん
彼はまたの名を元三大師(がんさんだいし)と言います!!!
彼は、天台宗の“中興の祖”と言われる人で
一言で言うと・・・
「おみくじ」を作った坊さんなんですね。
天台宗と言えば、最澄(さいちょう)が唐で修行した後に始めた宗派であり
延暦寺の開祖ですよね
それを引き継ぐように、良源も同じく唐で修行し延暦寺へと入ります。
その時に、唐から持ち帰ったのが「おみくじ」だったんですね
さて、そんな良源が始めたお寺でしたけれど
場所は現在の地ではなかったんです。
それから時は数百年流れ・・・この地に移ってきたきっかけになったのが
時は、豊臣秀吉の天下の時代
秀吉によって行われた京都の区画整理の際に
廬山寺はこの地へと移動する事となりました。
秀吉は京都を通る、通りに寺院をずらーっと並べます。
そうして出来たうちの1つが、京都の「寺町通り(てらまちどおり)」
その集められたお寺のひとつが廬山寺だったのです。
でも、どうして、秀吉は通りに寺院を集めたのか
理由としては・・・
(・∀・)ノ京都の鬼門を神聖な寺院によって防いだからだと言われています。
つまり、京都の北東の方角にずらーっと寺を並べ
入ってこれないようにしたんですね。
寺があるから、つまり・・・仏です
壊したら、そりゃ天罰が下ると思うワケ
その心理を逆手にとったという事なんです!
ま、こんな事が気にならないのは魔王と呼ばれた・・・
織田信長くらいのものです(笑)
さて、お話が長くなりましたけれど
そういう事で、廬山寺がこの寺町へと移されたワケです★足あと
その移って来た場所に以前あったのが・・・
紫式部の邸宅です!
ここで書かれたのが、あの源氏物語です。。
まず、中に入ると正面に見えるのが
元三大師堂です。この中には、先ほどご説明した
「おみくじお坊さん」である、元三大師が祀られているとの事です♪
その左手に・・・
なにやら気配を感じると思ったら
あっ・・
(・∀・)ノびんずるさーんっ♪
この妙に人間臭い顔がなんとも言えません(笑)
撫で仏とも言われ、自分の体の悪い部分を撫でる事でご利益があるんです~っ。
とりあえず、京子もナデナデしておきました
近くには供養塔がありました。奥に見えるのは元三大師堂です。
さて、元三大師堂からぐるっと右手に回ると
鐘楼があり、そして・・・
筆塚もあります。
紫式部にちなみ、使い終わった筆はここで供養されていたんですね
筆を地に埋め、築いたという事だそうです。
紫式部の歌碑もありますよ
「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな」
訳すると・・・
見たものが月かどうかもわからないうちに
雲に隠れてしまった夜の月のように
久々に再会出来たのに、アナタをはっきりと感じる暇もないくらいに
どちらかへ急がれるように帰ってしまったのね。。。
・・という切ない女心を詠んだものなんですね~
こちらが本堂。
そして、その本堂に面し広がっているお庭が・・・
源氏庭(げんじてい)です。
(・∀・)ノなんとも優雅な響きを持つ、美しい名前。
白砂と苔によって表現されたお庭で
この苔の部分は「雲」を表しているそうで
夏にはこの苔に
見事な桔梗(ききょう)が毎年咲くそうです♪
ちなみに、
源氏物語に出てくる「朝顔」という巻があるんですけど
この頃の朝顔の花は、今でいう桔梗の事だそうで
作者の紫式部にちなんで紫色の桔梗が、植えられているというワケです
源氏庭の石にも、「紫式部邸宅址」と書かれています。
さて、先ほどから源氏物語の話をしていますけど
いったいどんな話なのという方もいらっしゃると思いますので
簡単に、ご説明させていただきまーす
世界最古の長編小説で100万文字からなる源氏物語。
主人公は光源氏と、その息子として描かれている薫(かおる)です。
光源氏には、モデルが何人かいたとも言われているんですけど
そのうちの一人が源融(みなもとのとおる)という人。
もちろん貴族の一人でありまして彼の別荘、「棲霞観(せいかかん)」があった嵯峨釈迦堂も有名です。
※在原業平もその1人だと言われていまして、平安貴族の中で「絶世の美男子」と呼ばれていたんですね。
廬山寺の本堂には本尊である阿弥陀三尊(阿弥陀如来・右脇侍勢至菩薩・左脇侍観音菩薩)が祀られています
54帖に分けられた源氏物語は大きく三部構成になっていて
「第一部」
数多き恋愛を繰り返す光源氏のイケイケ生活
「第二部」
その恋愛遍歴も破綻を向かえ、無常となった光源氏の終生を描く
「第三部」
表向きは光源氏の息子として描かれる薫(かおる)を中心としたお話
と分かれています
お話の内容はと言いますと
今でいうトレンディドラマ恋愛物語なんですね~
幾人もの女性と関係を持つ光源氏
母親に似た人を好きになったり、自分好みの女性に仕立てる為に姪っ子を引き取ったり
人妻である女性も好きになったり、不美人と知らずに顔を見ずに夜這いもしちゃったり・・(汗)
などなど、とっても刺激的なお話である、源氏物語がこの場所で生まれたという事なんですよね
ちなみに、こちらの廬山寺では
毎年2月3日の節分に鬼法楽(おにほうらく)※通称「鬼おどり」
が行われています!
踊り
たいまつを振りかざしながら踊る赤鬼、青鬼、黒鬼が特徴的で
良源の鬼退治の故事に由来する行事だという事です
さて、この本堂と源氏庭からさらに右手に回る事が出来ます
この左手の塀の向こうが源氏庭です~、この道をまっすぐ進んでいくと
墓地があり、その先突き当たりが土手になっていまして・・・
これを、御土居(おどい)と言います。
これも冒頭で説明しました
豊臣秀吉よる
京都の区画整理のひとつで、全長は約22.5kmもあったと推測される土手。
四角形にぐるーっと取り囲まれた形であったそうで
この中に二条城や御所も
もちろん入っていたんですね。
京都の中心がこの土手の中に詰まっているという事なのです
御土居は、防衛や堤防の役割を果たし、交通の制限管理などもしていましました。
御土居の中を「洛中」
御土居の外を「洛外」
と、呼ばれるようになったというワケです
もちろん、現在はこの御土居は数箇所しか残っておらず
こちらの御土居に関して言いますと
高さ3メートル、距離にして50メートル程の状態で残っているとの事ですよ~。
この突き当たった御土居の左手は墓地になっていて
その先にありますのが、
慶光天皇廬山寺陵(きょうこうてんのうろざんじりょう)
慶光天皇?
江戸時代、慶光天皇は幕府から認められなかった天皇であり
正式に何代目というのがありません。
彼の息子の光格天皇(こうかくてんのう)は
後桃園天皇が男子を残さないままに崩御してしまった為に
急遽、3代前に枝分かれした血筋から立てられた
天皇で、そのお父さんが慶光天皇だったんですね
もちろん宮内庁が管理しています。
時の天皇である光格天皇は、自分のお父さんが
当時の大臣よりも地位が低いので
「こりゃなんとかしなきゃならん!」と、各策するんですね。
これが尊号一件(そんごういっけん)という事件の始まりです
光格天皇は
俺の親父が、摂関家よりも下になっちゃってる現状おかしくない
だって、俺天皇なのにお父さんは身分が下なんて・・・
と、不満を抱いていました。
太上天皇の尊号(つまり上皇)を父親に考えていたんですけど
これが幕府にバレてしまいます。
ここで出てくるのが
老中 松平定信(まつだいらさだのぶ)
※彼はちなみに吉宗のお孫さんにあたる人です。
当時は
「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」のおかげで
天皇は何事も幕府の許可を得なければ行動できなかった時代だったんです。
松平定信は「お父さんは天皇にもなってないのに、そんなの送るのダメですよ!」
と強く反対し、前例の無い事態だと認めようとはしませんでした
結果的に、称号は送られなかったワケなんですけど
待遇改善の折衷案として慶光天皇(つまり光格天皇のお父さん)に
1,000石の加増をするという事で手を打ったワケなんですね
更にその後には時の11代将軍「家斉」が
これまたパパに、「大御所」の尊号を贈ろうとします。
しかし、天皇家でそれはダメですよ!と言っちゃった手前
松平定信は、この時にも反対
それが原因で家斉と対立し、事件後に松平定信は失脚、辞職するんですね。
さて、ちなみにそこから時は流れ
その「悔しい思い」を晴らしたのが
光格天皇ひ孫にあたる明治天皇!!!
明治維新により、幕府は滅び
光格天皇のひ孫にあたる明治天皇より、慶光天皇の称号が送られたというワケです。
なんだかちょっぴり泣かせるお話じゃないですか~
そんな廬山寺の場所はコチラ↓ 大きな地図で見る