こんにちは京子です
さて、本日は幕末維新に出来た宗教のひとつ
黒住教(くろずみきょう)の教祖である
黒住宗忠(くろずみむねただ)を祀る神社・・・
宗忠神社(むねただじんじゃ)ですっ
さてさて、ちなみに場所は?と言いますと東山(洛東)で
真如堂の向かい(といっても、徒歩5分ほど)の位置にあります~っ
では
早速、中へ入りたいと思いますけど・・・
ぬぁ!なななーんと
ちょっぴりアクロバティックな狛犬を発見っ
どどんウルトラCっ。
じゃじゃん
まるで鯱(しゃちほこ)じゃないですか~っ。
見事な逆立ちを狛犬に
ばっちり決められちゃいましたけれど
よーく見ると、口元はしっかりと
阿(あ)と吽(うん)になっていますね。
仏教において、「阿」は口を開いて最初に出す音であり「吽」は口を閉じて出す最後の音なんですね。そこから、それぞれ宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされたと言われています。
神社仏閣によくある狛犬や仁王像は
このように2体で対(つい)になっていて
口元は片方が「阿」そして、もう片方が「吽」となっているのです
ではでは、どんどん先へと足を運んでみましょう~っ
まずは、こちらが宗忠神社の社務所ですね!
そして、そして!
このでーーん
と、構えているのが拝殿になります
綺麗な屋根ですね~♪
雄大な流造になっています。
さて
こちらの祭神にもなっている
黒住宗忠(くろずみむねただ)とは一体どんな人物なのでしょう
ここでこま札を見てみましょう。
黒住宗忠は幕末、岡山に生まれます。
そして彼が30歳を過ぎた頃開いたのが
黒住教(くろずみきょう)です
そんな黒住教は天理教(てんりきょう)や金光教(こんこうきょう)と共に幕末三大新宗教のひとつと言われる程、有名な宗教なんですね。
彼は幼少の頃から、近所でも評判の親孝行者だったそうで
「黒住の孝行息子」と呼ばれていたそうです。
しかし、相次いで両親を病で失い
極度の絶望状態に陥り
やせ衰えて行く中で
彼自身も肺結核と思われる病となって寝込んでしまうんですね。。。
うーん、絶望的(泣)
しかし!
そんな中
1814年11月11日の早朝、太陽を浴びる中で
天照大神と同魂同体になるという
「天命直授」と言われる霊的体験により天命を悟り
見事に病気も消え失せ、宗教活動を開始したそうです
以後は、病者に救済を行いながら37年にわたり各地で布教活動を続けたと言われています
そして、彼の死後に
朝廷から「宗忠大明神」の神号を与えられ
1862年、弟子のひとりである
赤木忠春(あかぎただはる)を中心に
宗忠大明神、つまり黒住宗忠を祀り社殿が建立したんですね。
それが、この宗忠神社というワケです
こちらが拝殿奥の本殿になります。
朝廷から「神号」を与えられるなんて
なんだか、とってもスゴいんじゃないでしょうか
そういった経緯があり
1865年には
孝明天皇の勅願所(天皇の勅願で建立された寺)となり
公家の方々や、尊皇思想家にも受け入れられたと言われています
そして、先ほども申しました
黒住宗忠の弟子のである「赤木忠春」を祀っている・・・
忠春社です。
ちなみに、この弟子である
赤木忠春は、両目を失明した事を契機に
黒住教に入信した人なのですが、弟子の中でも優秀だったらしく
この宗忠神社を建てた事もあり、京都で布教活動を拡大。
関白の九条尚忠が娘の病気治癒を契機として入信したり公卿へも影響を広げ、三条実美も一時、門人であったそうです。それに加え、赤木忠春は、尊王攘夷派の志士とも交流し、次第に政治的性格を強めた人物だったんですね。
しかし、その積極的な行動が
岡山にある黒住教の大元から別派独立の嫌疑を受け・・破門されちゃいます
目に付く行動をしたという事でしょうか?
彼は身の潔白を証明するために郷里で修行中に、お亡くなりになったようです。
そんな赤木忠春に
まつわるエピソードの井戸も境内にはあるんですね
それがコチラっ。
神井戸(かぐらいど)です
ある日、境内に井戸を掘ることになったそうですけれど
土地柄、こんな場所では「水なんて出ませんよ」と赤木忠春は言われるんですね。
しかし
「まぁ、とにかく
三十尺(9メートル)だけ掘ってみなさいな」
と伝え掘らせてみますが・・・やはり水は一滴も出ません。
しかし、赤木忠春は
「明日の朝、もう一度来て見てみてください。」と皆に告げます。
その夜、彼は
ご神前に供えた御神水を、掘りたての空井戸に注ぎ、一心に祈ったのです。
そして、次の日・・・
井戸に小石を投げ込んでみると
あら不思議っ。
どんどん水が湧き出してきたのです
それ以来、水の湧き出た井戸は重宝され神井戸と呼ばれました。
御神慮にかなわないことが起こると濁る
という風に、以後こちらでは伝えられています。
そんな宗忠神社の場所はコチラ↓
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