こんにちは京子です
さて、本日は12月14日っ。
今日は何の日かと言いますと・・・
赤穂浪士討ち入り事件(あこうろうしうちいりじけん)のあった日なんですね♪
毎年、年末にやっている時代劇ドラマ「忠臣蔵」での吉良邸へ討ち入をした、あの事件です。
という事でそれに合わせて行われているのが
京都、山科(やましな)の大石神社のお祭りである
山科義士まつり(やましなぎしまつり)ですっ。
どーですか、この勇ましい姿っ
今回は、こちらをレポートさせて頂きます!
さてさて、本日、京子は有休をいただいて
早速、祭りのスタート会場である
毘沙門堂(びしゃもんどう)へと到着したのが午前10時っ
※毘沙門堂については、後日また京子ブログの方で改めてご紹介させて頂きますね★
到着すると、もうすでに人がぞろぞろと集まりだしていました
京子のテンションも徐々にヒートアップしちゃいます。
そして、「山科義士まつり」の主役と言えば・・・
赤穂浪士(あこうろうし)ですよね
※「山科義士まつり」の義士とは、彼ら47人の赤穂浪士(四十七士)の事を指すのです。
そして、京子がその勇ましい男たちを
・・・ドキドキ!と遠くから見つめていると
ざわ…ざわ…
と、し出しました。
関係者以外は毘沙門堂の中には入れず、中にて出陣式が行われます。
そして、一足お先に今回の主人公である
大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお)が毘沙門堂を出発したあと、
いよいよアナウンスがされ、一般客にもピーンとした
緊張感が走ります
そして、毘沙門堂からみなさん
出陣でありまーす
※冒頭の写真は、その毘沙門堂から四十七士が出発する様子なのです。
さて、一足お先に出発していた大石内蔵助良雄はドコに行っていたのかというと瑞光院(ずいこういん)だそうです。こちらももちろん四十七士に関係のあるお寺で境内には、義士の遺書、遺髪塚、義士の墓などがあるそうですこちらで筆頭である大石内蔵助良雄が参拝をするんですね。
そして、再び山科の町を練り歩き
次に四十七士が向かう先というのが・・・
ビッグステージです
こちらは、某スーパーの駐車場に組まれた「特設ステージ」なのですね。
到着する頃には
すでに200人ほどの人たちが押し寄せていました~。
「四十七士を待ってました!」と言わんばかりのみなさんの顔っ。
(・∀・)ノ京子もこの祭りに参加出来て嬉しいです~♪
そして、このステージで始まったのが・・・
あの有名なシーンっ。
松の廊下事件(まつのろうかじけん)
江戸城にて、勅旨に対して徳川将軍が奉答するという「勅答の儀」が執り行われるはずだったのに勅旨を接待する役だった「浅野匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)」が「吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)」に切りかかるんですね。
こちらが浅野匠頭長矩ですね!
憎まれ顔の吉良上野介義央。本格的な俳優さんで劇も見応え充分っ♪
何故斬りつけたのか?というのは諸説諸々ありますし断定する事は出来ませんけれど
・浅野が適切な指導料を吉良に納めなかったため、吉良が浅野を苛めた
・赤穂の塩田の技術を教えるように吉良が浅野に迫ったけれど断られた
・浅野の小姓を吉良が所望したが断われた
というような理由で、吉良上野介義央が浅野匠頭長矩を憎んでいたと言われています。
そして、松の廊下事件のあった当日、
「勅答の儀」において浅野匠頭長矩は
吉良上野介義央によって恥をかかせたと言われていますね
しかーしこのような事件を引き起こした浅野匠頭長矩には
将軍(この時は徳川綱吉)から切腹命令が下ります!!
逆に、斬られた吉良上野介義央には何のお咎めも無し・・・なんですね。。
赤穂藩主であった浅野匠頭長矩の切腹により
幕府からお家断絶を言い渡され、解体。赤穂城を開場します。
赤穂藩の筆頭家老であった大石内蔵助良雄は、浅野匠頭長矩の敵(かたき)を取る事を決め
解体された赤穂藩を離れ、移り住んだと言われているのが
この京都山科だったんですね~
「うむ! 義士連判状しかと見届けたり。ご本懐をお祈り申す。」 と受け取ったのは山科区長だそうです。
※連判状とは志を同じくする人々が誓約のしるしとして自署し、判を押した書状です。
うーん、なるほど納得です
もちろん、当初、大石内蔵助良雄は
吉良の処分を幕府にちゃんと願い出ようと画策していたんですよね。
しかし、再興の願いは絶望的となった結果が・・・
「吉良を討つしかない!」という事で、仇討ちへと繋がるワケなんです。
と大石内蔵助良雄について来た47人こと、四十七士はいよいよ
松の廊下事件事件から約一年半経った
元禄15年12月14日、吉良邸討ち入りを決行します。
ちなみに、赤穂浪士をバックアップした一人と言われているのが天野屋利兵衛(あまのやりへい)。彼は商人であり、打ち入りの際は彼らの為に大量の槍を作ったそうです。
さて、ここで実際は深夜に吉良邸へ討ち入りとなったんですけど
現代でも充分暗いのに
昔だったら真っ暗だったはずですよね。
なのにも、関わらずなんと
昼間の様に明るかったとか
これは、赤穂藩が討ち入りを果たす前に
ご近所さん方に聞こえるような大きな声で
「今晩、討ち入りしますけど。ご迷惑だけはおかけしませんから」
と声を上げたら吉良邸の隣の「土屋平八郎邸」から
「ご存分にお働きあれ~」と言って
暗いと仕事に差支えがあるからと提燈を沢山立ててくれたそうです♪
えーーー?これから人を殺しに行く人を応援って
どういう事なんでしょう?
実は
当時の人たちにとって、赤穂浪士はヒーローだったんですね。
どうしてそこまでヒーローだったかというと
ポイントはやっぱり「仇討ち」ですね。
これにつきると思いますね~!
武士の鑑だ!ってなモンです。
この時代になると、昨日のブログでも言ったように武力をもって行う政治「武断政治(ぶだんせいじ)」から儒学(朱子学)を広め、その価値観の元、国民をまとめる「文治政治(ぶんちせいじ)」へと変わっていきました。
つまり
戦国時代の空気ではなくなったんですね。
殉死の禁止もされ
主君が死んだら家臣も死ぬ・・・というような時代では無くなっていたんです。
そんな移り変わる時代に対して、起こったのが
この赤穂浪士による、仇討ちなんですね。
つまり、世間の感情から言うと
「今どき、アツいハートを持ったやつらだぜ!」
「こりゃ、最近には珍しいくらいに美談だねぇ」
って事なんですよね。
なので、当時の人々には赤穂浪士は褒め称えられたんです。
今の時代まで語り継がれているのが何よりの証拠ですよね★
(・∀・)ノさて、劇はどんどん進んでいきます。
提燈で明るくしてもらい、無事に吉良邸へ入った
四十七士は屋敷のあちらこちらで
吉良の家来たちと刃を交えます
うーん、なかなか出てこない吉良上野介義央っ。
どこだー!激闘を繰り広げながら吉良上野介義央を探す、四十七士は
夜も明け始めた頃、ようやく炭小屋に隠れていた吉良上野介義央を探し当て
見事、討つ事に成功!
この中には、吉良上野介義央の首が入ってるんですね。
藩主であった浅野匠頭長矩の敵を取る事が出来ましたっ
首を取り、勇ましく勝鬨(かちどき)を上げる四十七士のみなさん♪
ちなみに、実際の元禄赤穂事件では、この後
浅野匠頭長矩が眠る泉岳寺(せんがくじ)へ吉良の首を墓前に捧げ、仇討ちが終わったことを報告したと言われています~。
※泉岳寺でも毎年12/14には義士祭が行われているんです。
劇の後は、開場のあちこちで撮影会状態になってました。という事で京子も姿を一枚パシャリ♪こちらは本日の主役!大石内蔵助良雄ですね★
彼らの仇討ちはここに終わるんですね。
さて「山科義士まつり」の方へ話しを戻しますと
無事に吉良を討ち取った四十七士は
エイエイオー!!!の勝鬨の声の下再び移動しますっ
勝鬨とは、戦などの勝負事で勝ちを収めたときに挙げる声の事ですよね~♪
ステージを後にした四十七士。
太鼓を鳴らしながら、次に向かった先は・・・
岩屋寺(いわやじ)です。
大石内蔵助良雄が隠棲したところと伝えられ、大石寺とも称されるこちらの岩屋寺で、お線香を上げ、手を合わしていました
(・∀・)ノいい顔してますぜぃ、大石のダンナ
こちらは大石主税良金(おおいしちからよしかね)は大石内蔵助良雄の息子。四十七士のひとりだったんですね♪
ここで、おめでたい!という事なのでしょう。
振る舞い酒をいただく事が出来るんですね~
地元の皆さんによる甘酒の接待っ。京子もばっちりいただいちゃいました~!おいしかったです♪
しかーし、調子に乗って飲んじゃったので
少々足がフラフラ(笑)
すぐに酔ってしまう、京子であります
orz
しかし、千鳥足の京子は四十七士にがんばってついて行きました
次々と大石神社に入っていく四十七士。
みなさん、やりきった顔をされていますね~っ
そして、ここでは
大石親子らによる玉串奉納のあと
踊り子さんによる、大石音頭が行われ
いよいよ、クライマックス
再び四十七士による勝鬨っ
「エイ、エイ、オー!」
「エイ、エイ、オー!」
「エイ、エイ、オー!」
「エイ、エイ、オー!」
もう、割れんばかりの拍手に包まれました~。
最後は、お祭りの主役でもある四十七士を始め
実行委員会の方々らが集まり記念撮影っ♪
毘沙門堂から大石神社まで、約6kmに及ぶパレードとその最中の劇や出し物。
沢山の見所が詰まった5時間にも及ぶ「山科義士まつり」これにて終了です
最後には、大石神社で売っていた「お手がら餅」を買って
帰りました
12月に入ってから今日までしか売ってないお餅だそうですよっ!
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