こんにちは京子です~っ。
さて、本日は
涙なしでは語れない
悲劇の恋物語が眠るお寺・・・
![滝口寺](2010/11/17/01/2010-11-17-1.jpg)
滝口寺(たきぐちでら)でございまーす
どうですか!?こちらも少しずつ紅葉が始まっていますね。
なんだかワクワクドキドキしちゃうこの感じ♪
はやく、紅一色に染まってほしい~っ。
さて、この滝口寺はドコにあるの?と言いますと
奥嵯峨野なのですね~♪
大きくは嵐山などのエリアに分類されるでしょうか?
以前取り上げました祇王寺のすぐ側に滝口寺がございます~っ。
ではでは、早速中へ入ってみましょう
![滝口寺のこま札](2010/11/17/01/2010-11-17-2.jpg)
こちらのお寺、平安時代は
「往生院 三宝寺(おうじょういん さんぽうじ)」と
呼ばれていました。
![滝口寺の石碑](2010/11/17/01/2010-11-17-3.jpg)
石碑にも三宝寺と刻まれています。
法然の弟子である
念仏房(ねんぶつぼう)によって創建された「往生院」は
「念仏道場」として栄え
その境内は広い地域に渡って数々の坊があったそうです
それが明治になり廃寺となりますけれど
近年、祇王寺に続いて
再建され、滝口寺と名前を改めたのです~っ
では、その滝口という名前はドコから来たのでしょう??
それは平家物語に収録されている
滝口入道(たきぐちにゅうどう)と横笛(よこぶえ)という2人の男女にまつわる悲劇の恋愛物語からきているのですねっ。
![滝口寺の境内](2010/11/17/01/2010-11-17-4.jpg)
山の中に滝口寺はあります。上から見下ろす景色が素敵ですね♪
ちなみに平家物語とは
平家の繁栄と没落を描いた軍記物語ですよね
時は平安時代、
京の平清盛の邸宅(西八条殿)では
100名以上が集まり宴が開かれていました。
そこに来ていた一人が
斉藤時頼(後の滝口入道)という
清涼殿(京都御所)の北にある警備の為の詰め所である
「滝口」に勤める武士でした。
※平清盛の部下だったんですね。
※滝口武士とは9世紀、宇多天皇の頃に出来たもので、この頃も続いていたのです。
そこで運命的な出会いをします。
雑仕女(ぞうしめ)と呼ばれる
雑役に従事した宮廷に仕える下級の女性であった横笛と
恋に落ちてしまったのです
それから、2人は逢瀬を重ねるようになったのです。
![滝口寺の境内](2010/11/17/01/2010-11-17-5.jpg)
見えてきました!こちらが本堂です。
時頼は
「結婚するならもう彼女しかいない!」
そう決心し、父親にその事を打ち明けますが
・・・大反対されてしまいます。
2人の身分が違い過ぎたんですね(泣)
時頼はどうしても正室に彼女を迎えたかったのですが
当時の身分差別は厳しく
・・・当然2人の恋もちぐはぐになり
悲しみに暮れた時頼は、
彼女への思いを断ち切る為に、この往生院に出家し、滝口入道と名を改めます。
彼と引き裂かれ
同じく、辛い思いをしていた横笛は
出家したと聞いて、急いで往生院へと向かったのです
![滝口寺の横笛の絵](2010/11/17/01/2010-11-17-6.jpg)
しかし・・・
出家した滝口入道はもう彼女とは決して会おうとはしませんでした。。
「どうにかして、彼にこの想いを伝えたい」
そう考えた横笛は
自らの指を切り、その流れる血で近くの石に和歌を記します。
そう・・・2人がラブレターを交換したあの時のように。
![滝口寺の血で書かれたといわれる石](2010/11/17/01/2010-11-17-7.jpg)
これがその血で書かれたといわれる石です。
「山深み 思い入りぬる柴の戸の
まことの道に我を導け」
まことの道とはもちろん
僧となった滝口入道の進む道の事ですよね。
この歌を残し、彼女はこの往生院を後にします。
その後の彼女は大和の法華寺で出家したとも
世を儚んで大堰川に身を投げたとも言われています。
![滝口寺の本堂](2010/11/17/01/2010-11-17-8.jpg)
本堂の中には滝口入道と横笛が寄り添うように並んだ坐像もありました。
一方の滝口入道は
横笛にこの場所を知られた以上
往生院にはおれず、高野山へ移る事となります。
そこで高僧となり、その後、平清盛の孫である維盛(これもり)の入水(入水自殺)に立ち会ったりもしているんですね。
はい!お話は変わりまして
![滝口寺の新田義貞の首塚](2010/11/17/01/2010-11-17-9.jpg)
こちらは
新田義貞(にったよしさだ)の首塚です。
彼は鎌倉後期~南北朝時代にかけての武将であり
後醍醐天皇に従って鎌倉幕府を倒幕する為に挙兵し
北条氏を滅ぼした人ですよね~。
その後、後醍醐天皇が政治を取り仕切り
天皇を中心とした天皇親政である「建武の新政」が始まるワケなんですけど・・・
※これにより新田義貞は京都の治安維持の組織、武者所の長官になったんですね。
武力で鎌倉幕府を倒しておきながら
後醍醐天皇は
武士に恩賞はほとんど与えないんです(汗)
各地で武家の不満が高まり
結果・・・
その武士のひとりである
足利尊氏が担ぎ上げられた形で
後醍醐天皇VS足利尊氏
が勃発しちゃうんですよね。
![滝口寺の本堂内](2010/11/17/01/2010-11-17-10.jpg)
本堂から外を撮影。窓から見た景色です♪
![滝口寺の境内](2010/11/17/01/2010-11-17-11.jpg)
どうですかこの景色!空気が美味しいですっ
![滝口寺の石碑](2010/11/17/01/2010-11-17-12.jpg)
滝口寺の一番奥にあります石碑!しかし、文字が消えてしまって読み取れず・・・残念(泣)
その尊氏との戦いに
借り出されたのが新田義貞
鎌倉倒幕でもっとも活躍した2人と言ってもいい
新田義貞と足利尊氏。
新田義貞は北条氏を滅ぼし
足利尊氏は六波羅探題を滅ぼしたのですね!
※六波羅探題とは京都にある鎌倉幕府の出先機関で朝廷監視と西国御家人の統括をしていた所です。
しかーし、そんな2人は協力し合えばいいに
仲は以前から悪く、鎌倉倒幕直後も
新田一族が拝領していた領地をことごとく足利尊氏は没収して他の武士に分け与えたり!
逆に、新田義貞が管轄している越後、上野、駿河、播磨国内における足利一族が所有している荘園をすべて取り上げたり!
いざこざを繰り返していたんですね。
ちょうどそんな事もあり、足利尊氏の挙兵を聞き
後醍醐天皇は、新田義貞に尊氏討伐の命を下します!!!
そして、結果は・・・
( ´Д`)箱根・竹の下の戦いで新田義貞は敗れてしまいます。
ちなみにこの次に後醍醐天皇より駆り出されたのが
楠正成(くすのきまさしげ)ですよね。
彼については
勝てない戦でも天皇の為に立ち向かう「七生報国」(七度、人と生まれて逆賊を破る)という言葉があまりにも有名です。
そして、足利尊氏に敗れた新田義貞は
京の三条河原で晒し首にされました。
それを知った新田義貞の妻と言われている
勾当内侍(こうとうのないし)は
夫の首を密かに盗み出し、この地に埋葬し
そのまま出家して夫を弔う為にここで過ごしたそうです。
愛されていたんですね~っ。
ちなみにこちらの紅葉は、10日後くらいが丁度見ごろのようですよ~。
つまり27日ですね~。
京子、今から月末がとっても楽しみです
そんな滝口寺の場所はコチラ↓
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