京都は真夏到来
毎朝、汗びっしょりで目覚めちゃうんですよね(汗)
クーラーも扇風機もかけっぱなしは身体に悪いって言いますし
うーん、身体によく、心地よく朝を迎えられる
納涼グッズって何かありますかね~??
あ、・・・こんにちは京子です
さてさて~
本日は、JR東海の「そうだ 京都、行こう。」でポスターにもなった
「悟りの窓」があまりにも有名なお寺
![源光庵の入り口](2010/07/22/01/2010-07-22-1.jpg)
源光庵(げんこうあん)です★
「え?。。悟りの窓!?そいつぁ一体全体なんなんだい京子ちゃん!?」
と、巻き舌口調で疑問に思ってらっしゃる方も少なからずいらっしゃると思いますのでさっそくご紹介したいと思います
![源光庵のこま札](2010/07/22/01/2010-07-22-2.jpg)
京都の大徳寺の初代住職を努めた徹翁義亨(てつおうぎこう)という方が隠居所として開基したのが、この源光庵の始まりです。徹翁義亨は、ちなみに鎌倉、南北朝時代の臨済宗のお坊さんです♪
![源光庵の楼門](2010/07/22/01/2010-07-22-3.jpg)
早速、楼門をくぐってレッツゴー
入ってすぐに本殿があり靴を脱いで上がります
少し歩くと・・・・いよいよ
あっ、うふふ。
ありますね~
ではでは・・・お待たせしました!!
「悟りの窓」そして「迷いの窓」をご覧頂きたいと思います♪
![源光庵の悟りの窓](2010/07/22/01/2010-07-22-4.jpg)
はいっ禅の境地といわれてる
こちらの左手、丸い形の窓が「悟りの窓」
そして右手、四角い形の窓が「迷いの窓」になります。
ふたつが、仲良く隣同士で並んでいて窓の奥には
見事な枯山水の庭園が広がってるんです
![源光庵の悟りの窓その2](2010/07/22/01/2010-07-22-5.jpg)
まずは、この「悟りの窓」は直径1.5メートルほどの大きさで
もちろん中にはガラスなんて貼ってません(笑)
窓と言いますが、穴が開いているだけ!と言ってしまえばその通りです♪
この円は大宇宙を表現すると共に
「禅と円通」の心を表したものだそうです
円通??それって何といいますと円通と名前のつくお寺は全国に沢山あり、じつは観音様の事をそう指して呼ぶそうです
つまーり、禅のように無心に、そして宇宙のように広く、観音様のように穏やかな心を表してるって事でしょうね
![源光庵の迷いの窓](2010/07/22/01/2010-07-22-6.jpg)
そして、もう一方の窓が四角の形をした「迷いの窓」
こちらは「人間の生涯」を象徴しているようで、
生老病死(しょうろうびょうし)の四苦八苦を表しているそうです。
生老病死とはちなみに、
この世で避ける事の出来ない4種類の苦悩
生まれる事、老いる事、病気、そして死ぬこと。
そんな禅の雄大な心と、苦悩が横並びで配置された表現された二つの窓。奥が深いんではないでしょうか
と思っていると
何やら天井から不思議な威圧感が・・・(汗)
はい、この奥深い2つの窓とは対照的に非常に血なまぐさいもう一つの
源光庵の見どころといえばこれしかありません
![源光庵の血天井](2010/07/22/01/2010-07-22-7.jpg)
それが血天井(ちてんじょう)です
( ´Д`)読んで字の如く!血の付いた天井でございます(怖)
![源光庵の血天井その2](2010/07/22/01/2010-07-22-8.jpg)
この本堂の天井に貼られた板はその昔に伏見桃山城より移されたものだそうで、そこで行われた戦いによって付けられた血のようですね
豊臣政権から徳川政権へと移り変わる動乱期、関ヶ原の戦いの前哨戦ともいうべき戦いが伏見城で行われました。
それが伏見城の戦い(1600年)です
・・・名前がそのまんまですね
秀吉の死後、伏見城には徳川軍の鳥居元忠(とりいもとただ)が留守を守っていました。
そこへ
豊臣軍である石田三成(いしだみつなり)によって攻め入られ
結果、元忠軍は自刃に追い込まれた戦いでした。
その戦いでついた血の後がこの天井に刻まれているんですね。
うぅぅ恐ろしや・・(汗)
「これにより伏見城は朱に染まった」と言われる程の壮絶な戦いだったみたいです
![源光庵の血天井その3](2010/07/22/01/2010-07-22-9.jpg)
はっきり分かる血の跡として3箇所
手の形がひとつと、足の形が2つ。
「え?天井なのに・・・・足??」
あ、もしかして!昔の武士は、ズサっ!と斬られると
なんと身体は天井に足が付くくらい激しく舞い上がり
壮絶な死に方をしたんだねスゲェ
・・・と、思ったみなさん!
それは間違いですよ~
じつは伏見城の時にはこの板は「床板」として使われていたみたいですね
なので、天井なのに、足形が残っているそうです。
なるほどーといった感じです
伏見城の戦いの勝者というべき、石田三成。
彼は一見、冷酷非道、悪役のイメージを持ってる人も多いんじゃないでしょうか
後年は義に生きた人と評価する人も多く、
なんだかんだで歴史上ではとても魅力ある人物の一人だと京子は思います
そんな三成は
豊臣政権の五奉行の一人と言われ偉く賢い人なんですよね。
その賢いといわれるエピソードの1つと言われているのが・・・
秀吉との出会いにあります。
三成はもともと、近江国長浜の観音寺の小坊主でした♪
そこへ鷹狩りにやってきた秀吉。
外は暑く、喉が渇いていたので
観音寺に寄り、三成にお茶を出せと言ったそうです。
秀吉は、その一杯の茶を飲むと・・・どうやら少し冷めた茶だったようです。
それを一気に飲み干した秀吉はもう一杯頂戴しようと言います。
次に三成が出したお茶は先ほどより少し温かいお茶。
それも飲み干した秀吉。そしてもう一杯、おかわりをすると
今度はちゃんと温かい茶が出てきたそうです。
そこで秀吉は見事と言い三成の願いもあり家臣にしたと言われています
つまり・・秀吉が喉が渇いている事を知った上で、
最初から温かい茶のままでは一気に飲めない事を考慮し、冷めた茶を
あえて出したそうです。
当時には柔軟なものの考え方であっぱれ!と秀吉が思ったんでしょうね
※ちなみにもはや天下人の秀吉に、冷めた茶を出すことはひとつの大勝負だったでしょう。冷めた茶をワシに出すとは!首を切れ!と言われてもおかしくないですから~っ
三成も、子供の頃から武士になりたい願望があったものの小坊主になったのは親の言い分で、「秀吉様により天下は泰平し、これからは教養が大事だ」との事でお寺に預けられていたみたいです。
でも、その秀吉との千載一遇のチャンスをモノにした三成はスゴいの一言
![源光庵の額「萬徳殿」](2010/07/22/01/2010-07-22-10.jpg)
額には「萬徳殿」の文字が!血天井のすぐ側に飾ってありました。
そんな賢い三成を取り囲む人物がまたスゴく、エピソードも豊富だったりします。
有名な家臣としては島左近(しまさこん)鬼左近とも言われるくらいの剣豪なんです。
剣の腕はイマイチだった三成は
当時名将と名高かった島左近を取り入れようと、
なんと自分の領地4万石の半分をプレゼントしたんです。
そうすると、左近の主君となるはずの三成は島左近と同じだけの領地しか持たないという主君と従者ながら、イコールの領地という駆け引きをしたんですね。それに納得した左近が召抱えになった話は有名ですよね。
これで、三成は剣豪を家臣にする事で知力と体力の両方を兼ねる事に成功したようです!
![源光庵にあった掛け軸](2010/07/22/01/2010-07-22-11.jpg)
季節ごとに変わる掛け軸もあるそうですよ~っ
他には
三成の友人として有名なのが
大谷吉継(おおたによしつぐ)という人物
秀吉の死後、どんどん豊臣軍から徳川軍に取り入る大名たち、吉継もそんな一人でした。
自分の寝返りによって三成との友情もこれで終わる事が分かっていながらも家の存続の為、家康側に付く事にした吉継は彼は今後敵になるかもしれない豊臣軍であった三成の城へと最後に出向き声をかけます。
「三成!次に会う時は戦場ぞ!!!」
最後の挨拶を済ませ、三成が天守閣から見送る中
吉継は城から出る足を
・・・・ふいに止めたのです。
彼は昔、三成とのある思い出を思い返していたのでした。。。
![源光庵にあった掛け軸その2](2010/07/22/01/2010-07-22-12.jpg)
悟りの窓、迷いの窓の側にかかっていた掛け軸。
吉継は業病(ハンセン病)という皮膚病にかかっていて
顔や頭を頭巾や包帯でぐるぐる巻きにして目だけを出して戦っていた戦国武将でした。
当然、差別的な事も沢山受けてきたと思います。
ある日、吉継は秀吉から茶会に呼ばれたのです。
普段目にする事のない高価な茶碗を出してきた秀吉。
各戦国大名たちはありがたく皆で
一口ずつ飲み、次の人へ回していました。
茶碗も次から次へと変わり
ある茶碗になった時、最初に口を付けたのは吉継でした。
業病だった吉継は顔や身体から膿が出ていたので
回し飲みに参加した他の武将達は気味悪がります。
うつるんじゃないか!?
俺もあんな皮膚になるのはゴメンだ!
なんて思われていたのでしょう、
吉継が口を付けた茶碗が回ってきても、皆飲むフリだけをしました。
あからさまに差別を受ける吉継
・・・その恥ずかしさと悔しさで今にも帰りたかったでしょう(泣)
そんな誰も口を付けない茶碗が
同じく秀吉に呼ばれていた三成へと回ってきたのです。
そこでなんと彼は、何も躊躇する事なく、その茶を飲み干したそうです
三成は「そんな事で吉継殿の面子を潰したくはない」と思った上での行動だったのです。
まさに、義の男、三成。
そのエピソードを・・・思い出した吉継は
彼の元へ引き返し、「俺の命をお前に預ける」と
家康側に寝返る事なく、関ヶ原の戦いでは結果的に自害に追い込まれ、その生涯を閉じました。
うーん、なんて友達思いで義が通った男なんでしょう三成。
剣の腕よりも、頭でのし上がりズル賢く思われている三成は反面、こんなアツいエピソードもある人なんですよね。
左近も吉継も三成も最後まで、秀吉軍が総崩れになっても最後まで
戦い抜いた人たちだったんですね
・・・あ(汗)
なんだか半分くらい三成の話になっちゃいましたけど(笑)
そんな源光庵の場所はコチラ↓
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