こんにちは京子です
本日は徳川初代将軍の家康が建て
15代将軍、慶喜が大政奉還をした場所で
世界文化遺産にも登録されているお城っ
二条城(にじょうじょう)です。
総面積275,000平方メートルの巨大な規模に点在する
重要文化財や国宝の数々をご紹介したいと思います~
外国人の方や修学旅行生も多い
京都でも人気スポットのひとつでもある二条城
平日でも人が多い事もさることながら、お城の中には、トイレが4箇所、そして休憩所も複数あり、ゆっくりと時間をかけて見物する事が出来ますよ
二条城は大きく、
二の丸御殿と
本丸御殿に分かれていて
中を公開しているのは国宝である二の丸御殿
まずはそちらに向かって歩いていってみましょう~!
二条城の入り口である
東大手門(ひがしおおてもん)をくぐります。
外国人の見物客も多い為でしょうか
オール英語のパンフレットなども置いてありました~。
もう・・・最初の門をひとつくぐっただけで
これはかなり広い・・と感じさせるゆったりとした作り。
スペースのとり方が尋常じゃありませんね、汗。
長旅になりそうですでも楽しみっ!
はーい、まずは入って右手にあるのが
番所(ばんしょ)
二条城の門番ですね~
当時、江戸から派遣された100人の武士が二条城の警備にあたっていたそうです。ここがその詰め所のひとつなんですね。
中には、当時を再現した人形が
どど~んと並んでいました。
目つきが怖い人たちばかり・・・なかなかのクオリティでしたよ(汗)
そして、奥へ進むと
大きな梵鐘が2つ
この鐘は、薩摩、長州から攻められた際の非常事態に鳴らす警報の役割に使われたそうです。
まだまだ先は長~い
どんどん歩くと、二の丸御殿へ入る為の門である
唐門(からもん)が見えてきました♪
門の上部にはとっても見事な彫刻があしらわれ
目が釘付けになっちゃいました。
うーん、ゴージャス!
この前で写真を撮る旅行者多数です。
そして、いよいよ見えて来たのが・・・
二の丸御殿(にのまるごてん)
靴を脱いで中に入る事が出来ます!
建物面積は3,300平方メートルで
部屋数なんと33!
延べ800畳余りの部屋が中にあるんです。
よーし、さっそく中に入って写真撮ろうー!
と思った瞬間・・・残念ながら・・・
撮影禁止(泣)( ´Д`)うーん残念
ということで、ここからは
京子のテキスト解説でガマンくださーい
入ってまずは
「虎の間」があります。
ここでは二条城に尋ねてきた外様大名を待たせる為の部屋のようですね。外様大名というのは、関ヶ原の合戦以降に徳川家に従った大名の事です
実はこの障壁画に描かれている「虎」
なーんと、当時、動いてる虎は日本におらず「虎の皮」を見て想像して書いたそうです。
これは狩野派によるもので豊かなイマジネーションに感服です
次に「式台(しきだい)の間」
大名が老中職と挨拶を交わした部屋だそうです。この奥には「老中の間」もあり、老中が執務をしていたんですね。
そして、次に進んでいくと
んなんだか人影が見えます
その数、数十人!!
みんな着物着てるっ
そうなんです、ここが有名な・・・
「大広間」
一の間は広さ48畳、二の間は44畳という
二の丸御殿の中で最も格式の高い部屋です。
とにかくビッグスケール
時代劇などでも出てきますよね?
大広間の一番奥、一段高い場所に将軍がどーんと座り
手前に数十人の部下が
はははーーーーーっ
と頭を下げて座っているあのシーン。
それを人形で再現してあります
うーん、まさに息を飲んじゃいますね
そしてここで行われた超有名な出来事と言えば
これしかありません。
徳川の最後の将軍、慶喜が出した
大政奉還(たいせいほうかん)です。
さて、この大政奉還は
一般的には、慶喜が負けを認めたというような
ネガティブなイメージを持ってる方が多いのではないでしょうか
まずはここで当時の背景を少しお話しすると
徳川幕府を武力で倒そうとする薩長側と
一方、有力諸藩による連合政権を作りたい土佐、肥前側。
つまり、武力派と反武力派ですね。
武力派は
武力によって幕府を倒そうと考えていたけど
まともにしちゃったら到底、幕府には勝てないし
大義名分が存在しないので攻撃する口実がありませんでした
で、そんな中武力派は攻撃できる口実を工作します
そうです、倒幕の密勅です。
これは朝廷から幕府を倒しなさい!という命令です。
これを薩長が受け取って幕府を攻撃する為の大義名分を揃え
いよいよ徳川幕府を武力によって攻撃する作戦を立てたんですね。
一方、反武力派は倒幕の密勅の情報を掴んでいたと言われています。
この倒幕の密勅を無効化する作戦として大政奉還を考えました。
大政奉還のアイデアは坂本龍馬が原案を作り土佐藩が幕府に進言したと言われています。
大政奉還とは
政治運営を幕府から朝廷に返すことです。この瞬間、徳川幕府は無くなります。
・・・つまりどういう事かと簡単に申しますと
倒幕の密勅というのは、幕府を武力によって倒すという命令
しかし、その幕府が大政奉還によって無くなっちゃったんですね~
武力派はやっと攻撃できる口実を得たのに、幕府がすでに無いので攻撃対象がいなくなっちゃったので・・・肩透かしを食らったようなもんですよね。
「えぇ?でもそれって幕府が負けを認めちゃったって事に思えるけど!?」
しかし慶喜はその先を見越していたのです。
実際、朝廷にはいきなり政治運営をする能力はありませんでした。
朝「僕ら、統治した事ないからやりかたよくわかんないよ」
となったのです。
そうです
徳川幕府はその日まで264年間、15代に渡り日本を統治した政権。数百万石を手中にする巨大グループ。
それに比べ朝廷が今日から統治すると言っても
・・・結局は無理な話なんですよね。
この読みは見事にあたり
その後も
今度は朝廷からお願いされる形で
政治を慶喜(徳川幕府)が取り仕切る事になったのです。
反武力派の作戦通り!
その後のお話はまた後半で~っ
大広間の先には
「黒書院(くろしょいん)」
将軍と親藩(しんぱん)と言われる徳川一門と対面する為のお部屋。
そして、二の丸御殿の一番奥となっている「白書院(しろしょいん)」
将軍の居間と寝室があります。ここにも人形がおかれ、将軍と大奥に出てくるような美しい女性たちが数人いらっしゃいました両手に華ですね~。
目の前には二の丸庭園が広がります♪
さて、二の丸御殿を後にして次に向かったのが
「本丸御殿」
三代目将軍の家光により増築され
五層の天守閣が高くそびえていたようで
さっそくその天守閣に行ってみると・・
( ´Д`)あれ?天守閣がない!
そうなんです
あったはずの天守閣はその姿が全く残っておらず
落雷で焼失
「天守閣跡」として、残された石垣を登ると・・
上にはベンチが4つという寂しい状況
でもでも、登る価値アリっ。
それは何故かというと・・・
ここから望む景色はサイコー。
天守閣跡というだけあって、二条城で一番高い位置から
見下ろす事が出来ます
本丸を支える見事な石垣はご立派♪
本丸を出るとぐるっと右手に回り
北中仕切門(きたなかしきりもん)をくぐると
なにやら庭石でしょうか?
島をかたどっているみたいですね?
う~ん、詳しい方がいらっしゃいましたら教えてください
そして
あっと驚く綺麗なお庭が見えてきました。
清流園(せいりゅうえん)
二の丸や本丸にも大きなお庭がありますが
こちらはその中でも一番大きく
面積は16,500平方メートルの広大なお庭
茶室である香雲亭(こううんてい)、和楽庵(わらくあん)が園内にあり
二条城で挙げる結婚式ではこの場が使われるそうですよ
うーん、こんな優雅で広々した場所でウェディング
最高ですねっ
清流園の半分は日本庭園の形式のひとつである園内を回って鑑賞する庭園、回遊式庭園(かいゆうしきていえん)と言います。
さて、
慶喜の思わく通りに大政奉還が進んだのもつかの間
次に武力派が出した作戦は
そうです、ご存知
「王政復古の大号令」(おうせいふっこのだいごうれい)
これによって日本の近代史がスタートするのです
王政復古の大号令とは
もうこれからは関白摂政、征夷大将軍を廃止して天皇が政治を取る。
武士による政治は終わりだよ、という事です。
その夜には小御所会議(こごしょかいぎ)が行われ
徳川家領は大きく没収されました。
そして、その後の徳川幕府をどうするかという話し合いは
続き・・・
結果的に武力によって徳川家を倒す事が決定されるのです。
でもやはり、そんな事を慶喜は納得するわけに行かず
大阪城に立てこもり、鳥羽・伏見の戦いにまで発展します。
鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍の圧勝に思われましたが
新政府軍(薩長を中心)は
錦の御旗(にしきのみはた)を持ちだします。
錦の御旗
この旗は朝廷軍つまり、天皇の軍隊である事を意味します。旧幕府軍は錦の御旗を見た瞬間・・・戦意喪失する者、続出!
なぜならば、錦の御旗を持っている新政府軍に弓を引けば、
その時点で朝敵(天皇の敵=逆賊)になっちゃうからなのです!
結果的に大敗をします。
総崩れ!慶喜は大阪湾から江戸方面に逃走!
新撰組もボロ負け・・・。
残った旧幕府軍の一部は北に転戦していくんですね。
なんにしてもこの二条城は歴史を大きく動かした場所であった事は間違いありません!
うーん、なんとも激動の時代だな・・・と。
後の人たちは、この時代を幕府の末の時代という事で
幕末と呼ぶようになったそうです
そんな大政奉還が行われた二条城はコチラ↓
大きな地図で見る