こんにちは京子です
さて、先日の神泉苑において書きました
長岡京遷都シリーズの続編という事で、
今回はコチラ~っ
乙訓寺(おとくにでら)です
こちらの乙訓寺、聖徳太子によって建てられたといわれてまして
場所はというともちろん京都府長岡京市にあり
長岡京遷都とも関わっていますが
どのように関わっているのかというと
一番の理由というのが・・・・コレっ!
早良親王が幽閉されていたお寺なんですよね~
では、さっそく乙訓寺にレッツゴー!
どどーーーんと構える正門の前には、
弘法大師(こうぼうたいし)ゆかりの寺と書かれています。
弘法大師そうです、つまり空海ですね♪
お坊さんですっ。
この空海と乙訓寺の関係についても
後ほどご説明させて頂きます
じつはこちらのお寺、通称・・
牡丹寺ともいわれているんです。
こちらのお寺の境内に、なななーんと
30種、約2000株もの牡丹が植えられているんです。
お話によると、4月下旬から5月上旬頃が
見ごろだそうで、その時期になると
牡丹のお花が一面に綺麗に咲き誇るそうです
うーん、来年は是非その姿を
カメラに収めたいなぁと思いながら門をくぐりまっすぐ歩くと・・
左手には
日限地蔵尊(ひぎりじぞうそん)
「日を限って(指定した日の)祈願をすれば願いが叶えられる」
といわれています。
そのまま、奥へと進んでいくと・・
か・・・かわいい・・・!!
ちっちゃなお地蔵さんが肩を並べて並んでいます~。
数にして200くらいでしょうか
そして、冒頭でも説明のあった
弘法大師立像が
早良親王の怨霊を鎮める為に嵯峨天皇が811年にこの乙訓寺へ弘法大師(空海)を迎えました。
前回の神泉苑でも書きましたが
ちょっと!早良親王の怨霊っていったい何なのさ!?
という方にご説明いたしますと
藤原種継暗殺事件に関わったという疑いをかけられて
のち流罪になった人物がこの早良親王なんですけど
時は桓武天皇の時代
平城京から京都に都を移そうと考えていました。
京都に都を移す理由として、
仏教勢力の力をそぎたかった為といわれています。
この頃、寺のお坊さんが政治に口を出したりしていたんですね。
そういった理由があり
桓武天皇はそれを嫌がり、平城京から京都に移そうと考えたわけです。
(平安京遷都のあとは、寺の移転や建立を禁止したりしました。)
その時に桓武天皇の信頼が厚かった藤原種継という人が
「それだったら、いいところがありますよー
長岡京ってトコが奈良からも離れててめちゃイイっすよ」
それを聞いた桓武天皇はOKを出し
種継にまかせていたところ、
・・・そうです、暗殺されちゃうんですね。
それが藤原種継暗殺事件なのです。
暗殺の首謀者は大伴氏などの人達だったんですが
それになんと、桓武天皇の弟である
早良親王が関わっていたんじゃないか
と、疑いをかけられ
ここ、乙訓寺に幽閉されちゃうんです
お兄ちゃんから疑いをかけられた弟の早良親王は案の定、無実を訴え、なんと絶食します。ですが、怒りまくってるお兄ちゃんは弟の流罪を決定します。
そして絶食していた弟の早良親王は流罪の途中で餓死しちゃいます。。。
餓死ですよ?餓死。
ここまでやりゃ、桓武天皇も許すと思うじゃないですか。
だって弟だもん。。
でも、このお兄ちゃんは冷酷でした・・・
お兄ちゃんの桓武天皇は、そこで許さず、死んでいるにも関わらず
流罪にしちゃうんです!なんて恐ろしい人
しかし、その後、桓武天皇の周りの人が次々と亡くなりこれは「早良親王の祟りによるもの」という噂が出て長岡京から平安京に都を移すことになります。他の原因もありますが、川の氾濫などなど、大きな一因はやはり怨霊だったんじゃないかな?と思います。
そして、そんな早良親王の怨霊を鎮める為に長岡京にある乙訓寺にやってきたのが弘法大師(空海)だったんですね
その後、戦国時代には織田信長の兵火により焼失したのですが
徳川5代将軍の徳川綱吉の母、桂昌院により再興されました。
境内を歩くと、いろいろ珍しいものが
この絵馬の他にも牡丹の絵馬もあるようですっ
こちらもめずらしい、わらじ絵馬。
健脚祈願だそうです
名前を書いて、絵馬と同じようにくくりつけられてました~。
弘法大師(空海)が植えられたという菩提樹もあります。
この他にも
早良親王供養塔もばっちりありました。
(その供養塔なんですが。。ばっちり写真を撮り忘れました)
そして、こちらが本殿。
合体大師像が眠っています。
え!合体!?(汗)
何と何が合体してるの!?というと
首から上が八幡大菩薩(神様ですね)で
首から下が弘法大師(空海)だそうです。
すごい・・・の一言です。。
さて、最後にもう少し詳しく
桓武天皇について書かせていただきますと
京子のブログだけでは。。。どうしても
「桓武天皇はなんだか冷たいだけの人」
のように感じちゃいますが(汗)
彼にとって殺された、藤原種継とはとても
強い繋がりがあったようです。
桓武天皇のお父さんにあたる光仁天皇(こうにんてんのう)が即位した時は
それまで長らく天皇の座についていた
天武系から、天智系へと戻し即位しました
その即位に関してもある秘密があったようで
そのカギを握るのが藤原百川(ふじわらのももかわ)という人物なんです。
彼は、光仁天皇の先代にあたる女帝である称徳天皇(しょうとくてんのう)の崩御の際
彼女の遺言(遺勅)をなんと偽装し「次の天皇を光仁天皇にする」という嘘を思いつき実行したといわれています。
なので、光仁天皇と藤原百川はもう切っても切れない関係なんですよね。
そして、その光仁天皇の息子である桓武天皇と藤原百川と同じ藤原式家(一門みたいなものですね)である藤原種継はお互い、先代から続く強いつながりを意識したのではないかなーって思います
そんな乙訓寺の場所はコチラ↓