こんにちは京子です
さて本日は
京都市内の大通りに突如出現する巨大な楠木(クスの木)
過去、区画整理においても、木を切ったり、または、移し替えようとすると
祟りがあったと伝えられ、その独特の存在感を放つ神社。
そうです、それが…
若一神社(にゃくいちじんじゃ)です!
さてさて、若一神社に足を踏み入れると
すぐ右手に現れるのが
どーん
平清盛、その人です。
それもそのはず
この若一神社を建てた人物と、言われているのが
この平清盛なんです。
時は平安その昔、この辺り一面は
「西八条邸」といって清盛の別宅があり、妻の時子が守ったとされている場所なんです
別宅と言っても清盛にとっては六波羅が仕事場で
西八条邸が自宅という感じだったのかなぁと思います
平安時代、武士という身分は低く、朝廷の用心棒という扱いに過ぎず
政治に武士が口を出すという考えはありませんでした。
そんな中、なんと清盛が武士にもかかわらず、
太政大臣(官職)に大出世した事から
若一神社は「出世・開運・金運・商売繁盛」のご利益もあるんだそうです
そして、太政大臣になった記念として清盛の手により
植えたのがこの大きな楠木だったのです
うーん・・・??
でも、どうして平清盛が
大出世をして、武士から成り上がり、太政大臣になれたのでしょう?
若い頃の清盛は
同じく武士の父親よりも随分早い出世をし、白河天皇(朝廷)に
気に入られ、可愛がられたといいます。
大出世の秘密はその白河天皇にあったという説があります。
じつは・・・
清盛の本当の父親は白河天皇だったと言われています。
清盛は思います。
俺が、お父さんだと思っていたのは本当の父親ではなくじつは白河天皇がお父さん!?
だから俺は出世したのか!?
朝廷の血を引く、武士なのか。
そんな自問自答や葛藤、何よりも、朝廷の人たちの目もあったのだと思いますが
武士の魂を持ち、朝廷の血が流れていても
平家の名前に誇りを持った人だったと思います。
そんな清盛にまつわる数々のものがこの若一神社には溢れているんです
「源平盛衰記」にも出てくる平家の代表紋、蝶紋。
この神社にもバッチリ蝶があしらわれています
「平家物語」によると、清盛が高熱に侵された時、その体を冷やしたとされる御神水。
平家の歌碑もありました。
「萌出づるも枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋にあはで果つべき」
野辺では、芽生えた草も、枯れる草も、秋にはみな同じように枯れ果てるものだ
と、書かれているそうです。
ちなみに、元ハロープロジェクトの平家みちよさんは、平家の末裔みたいですね~
「平家にあらずんば人にあらず」と言われた平家も
その後、源氏により壇ノ浦で滅びたといわれています。
そんな清盛ゆかりの若一神社、場所はコチラ↓
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