メモ2010-05-21
テーマ:お寺

銀閣寺(慈照寺)

こんにちは京子です

今日も京都はお天気


心地良すぎて…思わず、眠気がzzz

ダメダメ~(汗)

そんなお散歩日和の今日は、誰もが知ってる京の三閣の1つ

金閣寺(鹿苑寺)とともに京都の観光としては必須の場所ですよね。

そうです!


銀閣寺(慈照寺)

銀閣寺(慈照寺)です。

銀閣寺(慈照寺)の石碑

突然ですが…

私もいつも思っていました。(汗)


どうして?


ねぇどうして?


どうしてなの?(泣)


( ´Д`)

どーして銀閣寺は銀じゃないのー!?(泣)

そうなんです、金閣寺(鹿苑寺)は見事な金箔で飾りつけられていたのに比べ銀閣寺は、木の色そのもののシックな観音殿。


一体なぜ?

理由はあやふやだけど、どれが正解?

なんて方もいらっしゃると思いますので

ご説明させていただきます

そもそも、銀でない理由としてあらぬ噂が

蔓延しているのでまずはその誤解を解いておきます。

その噂というのがなんと

「銀閣寺はお金が無かったので銀箔が貼られていない」

というものです。

一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか?

実はこの噂、まったくの嘘なんです。(汗)


もともと、この観音堂に銀箔を貼る予定などありませんでしたし2007年には調査により銀箔を貼った形跡も見あたらないことから「途中まで貼ったけど、諦めた」という噂も嘘になります。


じゃあなんで、銀閣寺って言われてるの?

その理由は

錦鏡池(周りの池の名前)に太陽の光が反射し

「銀閣寺をキラキラと輝かせた」

という説が最も有力だとされています


と、いう事で少しスッキリしたところで

銀閣寺(慈照寺)のこま札

こま札チェック!

銀閣寺(慈照寺)の銀閣寺入り口

銀閣寺入り口

この銀閣寺を作った人というのが

室町幕府8代将軍、足利義政です。

足利義政って具体的にどんな人と聞かれると

「政治にあまり興味のない、芸術好きな旦那さん」

といった所でしょうか~

その解説はまた後ほどさせていただきます。


銀閣寺(慈照寺)の銀閣寺垣

まず、入り口の門をくぐると銀閣寺垣が現れます。

わー、高い垣根だこと!(汗)

7~8メートルくらいはあるでしょうか

いきなりでビックリしちゃいましたが

自分がまるで小人になった気分でした


さてそれを通り抜けると…

銀閣寺(慈照寺)の銀沙灘(ぎんしゃだん)

どーですか!?この風情~!


わび・さびと言われる世界に少し触れた気がします。

ちなみに一番奥に見えるのが

観音殿(銀閣)もちろん国宝です。


そして手前にあるのが、砂で波紋を表現した

銀沙灘(ぎんしゃだん)と

銀閣寺(慈照寺)の向月台(こうげつだい)

この、山の形をした向月台(こうげつだい)です。

どれも手入れが行き届いていて、見ててすごく気持ちがいいです。

銀閣寺(慈照寺)のみなさんも座りながらこの風情

みなさんも座りながらこの風情を楽しんでいらっしゃいます。

銀閣寺(慈照寺)の観音殿には鳳凰を発見

観音殿には鳳凰を発見!

さて、室町幕府8代将軍、足利義政の時代

義政には正室(奥様)の日野富子という人がいましたが実質、この時代の政治を取り仕切ったのはこの日野富子と言われています。

え?義政じゃないの?

と、お思いの方もいらっしゃるかと思いますが、義政は政治には興味を示さず代わりに日野富子が深く関わっていたらしいです。


そしてちょうど、この銀閣寺を作る前に起こった乱というのが


1467年の応仁の乱。

室町幕府の次期将軍の後継者問題がきっかけになった乱といえます。義政は正室(奥様)の日野富子との間に子供が恵まれなかった為、次の将軍は弟の義視(よしみ)に譲る事を決意し話を進めていた矢先…

なんと、

富子に義尚(よしひさ)が誕生したのでさぁ大変


日野富子はもちろん息子に将軍を継がせる為に争いが起こります。

政権の実力者である山名宗全を味方につけると義視も管領の細川勝元を付け対抗

日野富子・山名宗全チーム

VS

義視・細川勝元チーム

で、争いが起こりこれが後に応仁の乱へと発展!

京では争いが絶えなくなり、中央集権としての機能を失います

そこから各地でも乱が起こり、全国へと広がったのです。


そんな時、将軍である義政は何してたの

というと…


( ´Д`)現実逃避(汗)

もともと争いが好きではなかったのでしょう。

文化的な趣味に興じるなど優柔不断な態度を続けたと言われています。


ですが、それが後の

東山文化の開花へと繋がるのです!

能、茶道、華道、庭園、建築、連歌など多様な芸術が花開いた時代と言われ、その代表と言われるのが、この銀閣寺(慈照寺)です。


金閣寺が貴族的・華麗である北山文化であり

銀閣寺は庶民にも親しまれた、わび・さびの世界が東山文化なのです。


銀閣寺(慈照寺)の東求堂(とうぐどう)

これは銀閣寺内にある東求堂(とうぐどう)北面東側の四畳半は草庵茶室の源流、四畳半の間取りの始まりと言われています。


銀閣寺(慈照寺)の洗月泉(せんげつせん)

そのまま山側へと登っていくと、洗月泉(せんげつせん)や

銀閣寺(慈照寺)のお茶の井(お茶を飲むための水)

お茶の井(お茶を飲むための水)というものまであります。

そういえば、金閣寺にもこれと似た巌下水(がんかすい)や龍門滝(りゅうもんたき)がありましたね~


そして、そのままどんどん登ると


これです


銀閣寺(慈照寺)の上から見下ろす銀閣寺

どーん

上から見下ろす銀閣寺


うーん、最高です

ジオラマのように見えますがすべて本物です(笑)


時は戻りまして応仁の乱を迎えた室町幕府。

この時は応仁の乱によって、全国に争いが波及し、京都でのみしかその力は及ばなくなりました。

その頃、奥様の日野富子とも政義は別居しています。


逃げ腰の旦那に代わり

日野富子はこの財政難を逃れる為に出したアイデア。


それは


京都へ入るには7つの道があると言われ

その全てに関所を設けるのです!


京都を通ってどこかに行きたければ金を払えー!ってなものです。


ですが、そんな無茶な事をするとやっぱり・・・

一揆が当然起こりもう無茶苦茶


治安の乱れに拍車がかかり応仁の乱が終結を見せたのにもかかわらず全国的には争いは絶えず下のものが上のものを力によって倒すという


世に言う

「下克上の時代(戦国時代)」へ突入となるわけですが

1473年には

日野富子・山名宗全チーム

VS

足利義尋・細川勝元チーム

も結果的に山名宗全、細川勝元の両名が死んだことを期に実の息子の義尚に将軍は決定します。

そしていよいよ政治の世界から切り離された義政は

東山に引きこもりこの銀閣寺(慈照寺)を建て、文化的な活動にますますのめり込み、東山文化の礎になったといわれています。


ちなみに山名宗全(西軍)が陣を張ったのが今でいう西陣です。


そんな銀閣寺(慈照寺)の場所はコチラ↓


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最寄の交通案内

 市バス 5・17・203・204系統 銀閣寺道(ぎんかくじみち)