メモ2017-02-03
テーマ:祭り・イベント

木曽義仲公首塚供養祭 2017(法観寺)

今回ご紹介するのは

京都市東山区にある法観寺(ほうかんじ)で

毎年1月20日に行われている

木曽義仲公首塚供養祭

(きそよしなかこうくびづかくようさい)です!


木曽義仲公首塚供養祭


木曽義仲は、鎌倉時代の軍記物語である 『平家物語(へいけものがたり)』では、旭将軍(あさひしょうぐん:朝日将軍)とも称される人物で、治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん:1180年~1185年)、いわゆる源平合戦(げんぺいがっせん)の戦いの1つ、倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)で大勝利を収め、平家を都落ちさせた人物として知られています


一騎当千の女武者である巴御前(ともえごぜん)や

日本一の剛の者、今井兼平(いまいかねひら)らと共に

平安時代末期をまさに旭日昇天、日の出の勢いで駆け抜けた

源氏の武将だったんですね~


軍記物語『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』によれば、義仲は倶利伽羅峠の戦いで、牛の角に松明をくくりつけて敵に放つという『火牛の計(かぎゅうのけい)』を用いたとされています


平家が寝静まった夜

馬がすれ違うのも困難な細い峠道を

松明をくくりつけた数百の牛を駆け抜けさせ

その奇襲攻撃に驚いた平家軍は

闇夜の崖下に何重にも折り重なって

落ちていったと書かれているんですね~


平家物語や源平盛衰記といった軍記物語の

信憑性を疑問視する声はありますけれど

義仲が勝った戦いであった事は間違いありません


そんな木曽義仲につきましては

後ほど詳しくご紹介するとしまして

まずは法観寺について簡単にご紹介します。


法観寺の五重塔

法観寺の五重塔


法観寺は、東山のランドマークとして有名な通称、八坂の塔(やさかのとう)と呼ばれる五重塔がある事で知られる臨済宗のお寺です。


八坂神社(やさかじんじゃ)や

清水寺(きよみずでら)を訪れた事のある方なら

知っている方も多いのではないでしょうか


寺伝によれば、飛鳥時代(あすかじだい)の

589年(崇峻天皇2年)に聖徳太子(しょうとくたいし)が

如意輪観音(にょいりんかんのん)のお告げによって

五重塔を建立した事に、はじまるそうです


ちなみにこの五重塔は、現存しているものの中では京都府最古のものなんですよ


「朝日将軍木曽義仲塚」と刻まれている木曽義仲の首塚

「朝日将軍木曽義仲塚」と刻まれている木曽義仲の首塚


そんな法観寺の境内に

木曽義仲の首塚があるんですけれど

この首塚、もともとは霊山護国神社

(りょうぜんごこくじんじゃ)参道に

『朝日塚』という名で安置されていたそうで

紆余曲折を経た後、1997年(平成9年)に

法観寺に移されたそうです


「木曽義仲公首塚」と書かれた駒札

「木曽義仲公首塚」と書かれた駒札


法観寺に移されてからは毎年1月20日、木曽義仲の命日、義仲忌(よしなかき、ぎちゅうき)に法要が営まれているんですね


「木曽義仲公首塚供養祭」と書かれています。

「木曽義仲公首塚供養祭」と書かれています。


それでは早速レポートしていきましょう


午前11時頃、法観寺の境内に着くと

藍色の揃い浴衣を着た『木曽踊保存会』の方達や

『木曽義仲・巴ら勇士讃える会』の方達をはじめ

関係者らがすでに集まっておられました


聞くところによりますと関係者の方達は

11時からの法観寺での法要の前に

滋賀県大津市(おおつし)にある義仲寺(ぎちゅうじ)で

10時に法要を行っていたそうで

その後、京都に来られているんだそうです


ちなみに義仲寺には義仲のお墓があるんですよ


11時を少し回ったところで

しばらくすると、お坊さんが来られて

木曽義仲公首塚供養祭が始まりました。


法要は法観寺境内の八坂稲荷神社内にある

木曽義仲の首塚の前で行われ

関係者の方による簡単な挨拶と

法要のご説明をされてから始められます


八坂稲荷神社

八坂稲荷神社


まずは、お坊さんが
首塚の前で膝を折ってご焼香をします。


その後、お坊さんは首塚から少し離れた所で

念仏を唱えられるんですね


念仏を唱えている間に関係者はもちろんの事

参列した人達が順々にご焼香をしていきます。


ご焼香の様子

ご焼香の様子


ご焼香が終わると今度は五重塔の前に集まって、木曽踊保存会の方達による『木曽踊り』が木曽の民謡『曽節(きそぶし)』を歌いながら奉納されます


『木曽節』(一部)
「木曽のナー 中乗りさん
木曽の御岳 ナンジャラホーイ
夏でも寒い ヨイヨイヨイ
袷ょ(あわしょ)ナー 中乗りさん
あわしょやりたや ナンジャラホーイ
足袋もそえて ヨイヨイヨイ」


木曽踊りの奉納

木曽踊りの奉納


木曽踊りは、その昔、木曽義仲の戦勝を記念した霊祭で踊られたと伝わる武者踊りを起源とする踊りなんだそうですよ


そして木曽踊りを奉納した後には

その場にいる皆さんで集合写真を撮って

法要が終わります


ここで冒頭、少し触れました木曽義仲について

もう少しだけ詳しくお話しておきたいと思います


木曽義仲は、正式には源義仲(みなもとのよしなか)と言って、頼朝や義経の従兄弟に当たる人物で、彼らと同じ源氏の武士です。


どうして源義仲よりも

木曽義仲を名乗っているのかと言いますと

おそらくこの頃、各地に

「みなもとの○○」といった人物がたくさんいたので

それらと区別する為に自分が育った木曽谷から

木曽という字を取り、木曽義仲と

名乗っていたのだと思われます


義仲は鎌倉時代の歴史書

『吾妻鏡(あずまかがみ)』によりますと

源義賢(みなもとのよしかた)の次男として生まれ

3歳の時に父、義賢を頼朝の父である

源義朝(みなもとのよしとも)の長男

源義平(みなもとのよしひら:悪源太義平)に

討たれたというんですね


その後、義仲は信濃国(しなののくに:現在の長野県)の

木曽谷へと逃れて生き延び、そこで育ったというわけです。


同じ源氏同士でどうして殺し合いを?と

思われる方もいらっしゃるかもしれませんけれど

当時は同族同士での争いは珍しいものではなく

これより少し前の保元の乱(ほうげんのらん)や

平治の乱(へいじのらん)では

皇族や藤原氏、そして平氏、源氏らが

両陣営にバラバラに分かれて争っています


木曽谷では、今井兼平や

樋口兼光(ひぐちかねみつ)、根井行親(ねのいゆきちか)

そして楯親忠(たてちかだた)といった

後に木曽義仲四天王と呼ばれる人達とも

出会っているんですね~


ちなみに義仲の妻、または妾(めかけ)であったとされる

巴御前とも、この頃出会ったとされているんですけれど

平家物語や源平盛衰記などの軍記物語の中にしか

記述が確認出来ず、その存在は謎に包まれています


ともあれ義仲は、木曽ですくすくと育ち、27才の時、後白河法王(ごしらかわほうおう:第77代天皇)の第三皇子である以仁王(もちひとおう)による平氏追討の令旨(りょうじ)を頂いて挙兵する事となるんですね~

※令旨とは、皇太子、太皇太后、皇太后、皇后の命令を伝える文書のこと。天皇の命令を伝える文書は詔勅(しょうちょく)、簡易的なものは宣旨(せんじ)と言います。さらに宣旨を簡易的なものしたものが綸旨(りんじ)と言います。ちなみにこの時、以仁王は皇太子ではなかったので、本来であれば令旨とは言えません。


初陣の市原合戦(いちはらかっせん:市原の戦い)で勝利を収めると、横田河原の戦い(よこたがわらのたたかい)、倶利伽羅峠の戦い、篠原の戦い(しのはらのたたかい)と日の出の勢いで平家軍を打ち破り、ついには平家を京の都から追い出し、入京を果たします


かつて藤原道長(ふじわらのみちなが)が

「この世をば、わが世とぞ思う望月の
欠けたることの無しと思えば」

と、この世の春を謳歌しましたけれど

その後、平家が隆盛を極めた頃には

平時忠(たいらのときただ)という

平清盛(たいらのきよもり)の義理の弟が

「此一門にあらざらむ人は
皆人非人なるべし」

つまり「平家にあらずんば人にあらず!」

と言ったと平家物語には書かれています


その平家を京から都落ちさせたのは頼朝や

その弟の牛若丸(うしわかまる)で知られる

義経ではなく旭将軍木曽義仲だったんですね~


その後、京都に入った義仲は

乱暴狼藉を働いたというのが通説のようですけれど

こちらは賛否があって、実際のところは分かりません。


けれど後に後白河法皇と対立する事になって、頼朝に義仲を討つ密命が出されてしまうんですね


頼朝の命を受けた義経軍に

宇治川の戦いで義仲は敗れ

わずかな兵とともに敗走の最中

近江国粟津(あわつ:現在の大津市)で

討たれてしまいました


31才であったといわれています。


義仲の最後を平家物語では次のように描いています。


「日頃は何ともない鎧なのに
今日はとても重く感じるな…」

と言う義仲に対して今井兼平が

「殿の体は疲れていないですし、馬も弱ってません。鎧が重く感じられるのは、味方の軍勢がいなくなって心が臆病になっているからだと思います。どうかこの兼平を武者千騎と思って下さい!まだ矢が7、8本残っていますので、しばらく防ぎますから、あそこに見える粟津の松原の中で御自害して下さい。」

と言って、馬を進めた先に敵の追っ手50騎程が現れました。


「殿!あの松原に入って下さい!
ここは私が防ぎます!」


「この義仲、都で死なず、ここまで逃れてきたのは、兼平と一緒に死のうと思ったからだ!バラバラに討たれるよりも同じ場所で討ち死にしよう!」


兼平は馬から飛び降りて義仲の側に行き

「いくら名の通った武将であっても、最後の時に不覚を取れば、お名前に傷がつきます!殿がもし、名を名乗れない程のような者に討たれたとあっては、私はくやしくてなりません!どうか!あの松原へ入って下さい!」


その言葉を聞いた義仲は

「…さらば!」と松原に向かって駈けていきました。


けれど、義仲の馬は途中、田んぼのぬかるみに足を取られて身動きが取れなくなってしまい、そこに不幸にも1本の矢が義仲の額を射抜いて首を取られてしまいます。


それを見た兼平は、戦う事をやめ

「東国の武将らよ、これを見よ!
日本一の剛の者の自害する手本だ!」

そう言って、太刀の先を口に含み

乗っていた馬から真っ逆さまに飛び降りて

頭を貫き、果ててしまった。


その後、義仲の首は六条河原でさらされた後

獄門に掛けられたそうですけれど

最終的には、朝日塚に埋葬されたそうです


ちなみにその後の巴御前がどうなったのかは、平家物語や源平盛衰記によれば、義仲に説得されて離れ、尼になって義仲らの菩提を弔いながら91才まで生きたといわれています。


義仲寺は、そんな巴御前が義仲の菩提を弔う為に

営んだ草庵がはじまりといわれているんですね


という事で少し長くなりましたけれど今回は

法観寺で行われた木曽義仲公首塚供養祭を

ご紹介しました


木曽義仲にご興味がある方は

義仲の首塚をお参りしてみてはいかがでしょうか。


木曽義仲公首塚供養祭の行われた法観寺の場所はコチラ↓