メモ2014-11-10
テーマ:お寺

浄禅寺

今回ご紹介するのは

京都市南区の上鳥羽(かみとば)にある

浄禅寺

浄禅寺(じょうぜんじ)です!


浄禅寺は浄土宗西山禅林寺派のお寺で

山号は恵光山(えこうざん)といいます。


本堂の額

本堂の額。


創建は平安時代末期の

1182年(寿永元年)で

文覚(もんがく・僧)が開いたそうですよ


こま札

その後、1711年(正徳3年)に

お寺は火災で焼失してしまうんですけれど

天保年間(1830~1844年)に再建され

現在に至ると言われています♪


ちなみに文覚は

もともと遠藤盛遠(えんどうもりとお)といって

北面の武士だった人物なんですね~


北面の武士とは

白河上皇(しらかわじょうこう・第72代天皇)が作った

院の御所の北側を警備する役目から

そう呼ばれていたんですよ。

主に僧兵(ぞうへい・僧侶の姿をした武士)対策が仕事だったようです。


そんな盛遠がどうして

文覚となったのでしょうか

それにはある悲しい話が伝わっているんですね。


その辺りは後ほどご紹介するとしまして

まずはお寺の中に入っていきましょう


普段、こちらの門は閉まっているので

普段は柵があります。


ここから入ります。

入り口


入ってすぐ左側には

十一面観世音菩薩が安置されている

観音堂がありました

観音堂

十一面観世音菩薩は

平安時代の作と伝わっているそうですよ。


そしてさらにまっすぐ進むと

地蔵堂があります。


地蔵堂

地蔵堂には

鳥羽地蔵(とばじぞう)と呼ばれる

お地蔵さんが安置されていて

京の六地蔵めぐりの1つに数えられているんですね~。


鳥羽地蔵

ちなみに六地蔵とは

平安時代、小野篁(おののたかむら・小野妹子の子孫)が地獄に行った際

亡者を救っている地蔵菩薩を見て大変感激し

この高徳を広めようと

木幡山(こはたやま・現在の伏見区にある大善寺あたり)の桜の一木から

六体の地蔵を彫ったのが始まりとされています

※小野篁について詳しくは、六道珍皇寺千本ゑんま堂(引接寺)の記事をご覧ください。


そして後白河法皇(ごしらかわほうおう・第77代天皇)の命により

平清盛(たいらのきよもり)が

西光法師(さいこうほうし・後白河法皇の側近)に

六角堂を建てさせたそうですよ。

※平清盛について詳しくは、平清盛ゆかりの地巡りの記事をご覧ください。


都の入り口である街道の6ヶ所に建てると

地蔵菩薩を一体ずつ安置し

祀ったといわれています。


これは京都の入口にあたる場所に

それぞれ地蔵を安置する事で

旅の安全や都に邪気が入ってくるのを

防ごうとしたんですね


そしてそんな六地蔵を巡るのが

京の六地蔵巡りというわけです!


毎年、8月22日~23日に

6つの街道に祀られた地蔵菩薩を巡礼し

家内安全、無病息災などのご利益を得るものなんですよ。


1番・大善寺(奈良街道)

2番・浄禅寺(西国街道)

3番・地蔵寺(丹波街道)

4番・源光寺(周山街道)

5番・上善寺(若狭街道)

6番・徳林庵(東海道)


以上の6つを期間内に回ります。


さて、冒頭でもお話しました

北面の武士であった遠藤盛遠が

どうしてお坊さんになったのか

気になりますよね~


その辺を簡単ではありますけれど

ご紹介します!


冒頭で浄禅寺は

お坊さんとなった文覚が

建てたと言いましたけれど

その理由は、ある人物を弔うためだったんです。


そのある人物とは・・・

袈裟御前(けさごぜん)です


袈裟御前は源渡(みなもとのわたる・北面の武士)の妻で

大変美しい女性だったといわれています。


けれどそんな夫のある袈裟御前に

心を奪われてしまったのが

のちの文覚である盛遠だったんですね


山門前に安置されていた石仏

山門前に安置されていた石仏。


盛遠は夫がいるのを知りながらも

袈裟御前を諦めることが出来ず

「あなたの母を殺して、私も死ぬ」

激しく詰め寄りました!


その方法も尋常ではなく

お母さんの命まで危うかったそうなんです


袈裟御前は悩みに悩んだそうですけれど

母を自分の為に殺されるわけにはいかず

「私には夫がいます。夫を殺してくれるのであれば

あなたの気持ちに応えられます。」


と言って何とか盛遠を沈める事に成功するんですね。


手水鉢

手水鉢。水は飲むことが出来るようです。


そして盛遠は、その日の晩に

源渡がいる屋敷に忍び入り

事前に袈裟御前から教えられた手はず通りに

濡れ髪を探りあてると

一刀のうちに切り伏せます


そして盛遠は

切り落とした首を持って屋敷を出ると

暗闇の中をひた走りに走りました。


その後、盛遠は月明かりで

首を確認したんだそうです。


すると・・・なんと、その首は

自分が愛した袈裟御前のものだったんですね


要するに袈裟御前は

最初から盛遠の妻になんてなるつもりはなく

母や夫、さらに自分の貞操を守るために

盛遠を騙して

自分を殺させたというわけです


その事を知った盛遠は後悔の念から出家し

文覚と名前を改めるんですね。


僧となった彼は

袈裟御前の首を塚に埋め

菩提を弔いました。


その首塚のある場所を

お寺にしたのが浄禅寺というわけなんです


その事から、この浄禅寺の事を

恋塚浄禅寺(こいづかじょうぜんじ)と

門前の石碑

門前の石碑

呼んだりするそうですよ。


こちらは本堂です。

本堂

本堂には、ご本尊である

阿弥陀如来像の他に

開祖である文覚や

袈裟御前と、その夫である源渡の像も

安置されています


これは袈裟御前の首を埋めたとされる

五輪塔(恋塚)

五輪塔(恋塚)です。


また、お寺の山門前には

乙訓郡長岡藩主であった永井直清(ながいなおきよ)が建てた

袈裟御前の貞女を讃えた恋塚碑があります。


碑文

※碑文は林羅山(はやしらざん・江戸時代初期の儒学者)によるものと言われています。


ちなみにこの話と同様のものが

下鳥羽にある恋塚寺(こいづかでら)にも

伝わっています


どちらが本当の恋塚なのかは

わかりませんけれど

江戸時代に刊行された地誌

『雍州府志(ようしゅうふし)』では

浄禅寺は当初、恋塚ではなく

鯉塚であったと書かれています。


宝筐院塔

宝筐院塔(ほうきょういんとう)。


なんでも、昔この付近の池の中に巨大な鯉がいて

それが妖怪となって暴れたんだそうです


その後、鯉は地元の方によって討伐されると

塚を作り祀ったというわけなんですね。


ちなみに袈裟御前の話は

源平盛衰記(げんぺいせいすいき・鎌倉時代の軍記物語)に詳しく書かれていたり

いくつか映画にもなっているそうなので

気になった方は見てみてはいかがでしょうか

※その中の1つ『地獄門』はカンヌ国際映画祭で最高の賞を受賞したそうですよ。


そんな袈裟御前の悲しい話が伝わっている

浄禅寺の場所はコチラ↓


大きな地図で見る