こんにちは京子です

本日、ご紹介するお寺は・・・

(・∀・)ノ方広寺(ほうこうじ)です


戦国ファンの方なら、この名前を聞いただけで

ピンと来た方もいらっしゃるのではないでしょうか

そうです。

豊臣氏滅亡のきっかけとなった

『国家安康の銘鐘』があるお寺なんですよ

これに関しては後ほど詳しくご説明しますね。


さて、まずは

こちらのお寺を建てたのは誰か・・・と言いますと

方広寺本堂の豊臣秀吉画像

天下人『豊臣秀吉』です


派手好きな秀吉は、当時こう言ったそうです。

「奈良にある東寺の大仏に負けないくらいの

デッカーイ大仏を京都にも作ったろみゃーか!やったるで!」


という事で

1586年より工事が開始され、9年の歳月をかけて完成されたのが

東寺の大仏よりも3メートル大きい


高さ19メートルの巨大な大仏

それと大仏殿だったんですね。


もう、完全に奈良の大仏さんを意識しちゃった秀吉により

大迫力の大仏さんや大仏殿が完成しますけれど



( ´Д`)・・・なんと一年で地震により倒壊

これには秀吉もキレたそうで、大仏に向かって


「ぬぁぁぁ!京の町を守らにゃいかんのに

お前がのぅーなってもうて、どないすんじゃ!!」


・・・と大仏に向かって弓矢を引いたなんてエピソードもあるそうですよ。


本堂向かって右手にあります『大黒天堂』です。中には秀吉が大切にしていた大黒天像が安置されています。


こちらが大黒殿の部屋です。この部屋は3つの部屋をひとつにしたような作りになっています。


一番南側の部屋の天井にはいくつものお花が描かれています、以前は龍の絵が描かれていたそうですよ。



さて、秀吉の死後

この大仏の再建は

方広寺本堂の豊臣秀頼画像

息子の秀頼(ひでより)に託されます

※ちなみに、これらの掛け軸は方広寺の本堂にあります~。


徳川家康の協力もあり

再び巨大な大仏さんが完成したのは1612年。


これで一見落着かと思いきや・・・


そうです。あの事件が起きるんですね。

(・∀・)ノ『方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)』です

さて、この当時の時代背景をさらっとおさらいしておくと


天下を治めていた秀吉がこの世を去り

秀吉の家臣たちは東西に分かれて戦を行いました。

それが関ヶ原の戦いですね


これにより1603年、江戸に幕府を開きます。

そこで一番邪魔な存在だったのが

秀吉の跡継ぎである『秀頼』です。


大黒天堂の2つ目の部屋の天井に描かれている孔雀や鳳凰です。


こちらは「五七の桐」!豊臣家の家紋ですよね~。


大黒天堂の一番奥の部屋です。正面の像が大黒天像です。秀吉はこの大黒天像を気に入って、方広寺に持ってきました。そしてこの像をいつでも持ち運べるように、これとそっくりの大黒天像を作り、持仏として大事にされていたそうですよ。


家康はこう考えたのです。

「秀頼を殺し、豊臣を完全に滅亡させなければ徳川の時代は来ない。俺が死んだら・・再び戦乱の世となるだろう。」


そこで、家康は秀頼に文句をつける事にしました。

それが『方広寺鐘銘事件』です


もう一度こちらの写真を見ていただきます。

方広寺にあります、こちらの鐘が原因なのです。

鐘に刻まれた白く囲まれた部分の字をよーくご覧下さい。

「国家安康 君臣豊楽」と書かれているのです。


国家安康の銘鐘

鐘の前には『国家安康の銘鐘』と書かれた木の札もありました。20年ほど前までは参拝者も自由に撞けたみたいですよ。



日ごろから豊臣氏を滅ぼす理由を探していた家康は

金地院崇伝(こんちいんすうでん)というお坊さんから

あるアイデアを頂くのです


ちなみに、崇伝は黒衣の宰相(僧職でありながら権力を持った人の異名)

とも呼ばれる

家康のフィクサー的存在で頭がキレちゃう人なんです。

武家所法度やキリスト教の禁止にもかかわっていたりします


さて、アイデアとは大変驚くべきもので

当時の人から見ても・・言いがかり以外の何物でもありませんでした。

それは

鐘に刻まれた「国家安康 君臣豊楽」の文字を見て


「家康の名前を二分し、豊臣を君主とするという意味ではないのか

徳川を滅ぼし、豊臣の繁栄を願うとは何事だ


と・・・難癖をつけたんですね。

どうしてこの文字が、言いがかりなのかと言うと

国家安康、君臣豊楽という文字は

他の鐘や日常でも普通に使われているからです。


これが崇伝の考えた

豊臣氏を戦にもっていく為のアイデアでした


これにより

豊臣氏に刀を向ける大義名分を家康は手にしたのです。



今度は本堂へ移ります。こちらは4度目に再建された大仏の眉間にあった仏様。焼け跡から救出されたそうです。


焼失してしまった大仏殿の欄間にあったといわれている龍の彫り物です。


そして最後に本堂にある大仏さんです。大きさは当時の約1/10サイズです。それでもかなりの大きさですよっ


という事で、その大義を手にした家康は

兵を大坂城に向ける事となりました。

これが、大坂の陣ですね


結果的に徳川軍により火が放たれ

燃え盛る大坂城において

秀頼と、母である淀殿は自害し

1615年・・・ついに豊臣家は滅亡したのでした


こうして最大の敵を排除した徳川家康によって

徳川幕府は260年もの間、日本を治める事となるのですね。

そんな事件のきっかけをつくった鐘のある

方広寺の場所はコチラ↓


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