メモ2010-08-30
テーマ:お寺
関連:信長忌 2011(阿弥陀寺) / 信長忌 2012(阿弥陀寺) / 

阿弥陀寺

こんにちは、京子です

さて、本日はあの本能寺の変で自刀した

織田信長のお墓がある・・・


阿弥陀寺の入り口

阿弥陀寺(あみだじ)ですっ

さてさて、

本能寺の変」は歴史上でも謎の多い事件の一つとして語られる事の多い出来事ですよね。


今日はそこをじっくりと

ご説明していきたいと思いまーす


阿弥陀寺の織田信長公本廟

入口にもどどんと書かれています「織田信長公本廟」


本能寺の変とは

京都の本能寺で泊まっていた織田信長を

家臣である、明智光秀が裏切り謀反を起こし

自刀に追い込んだ事件であります。


つまり、部下の裏切りですよねー!

この時代では、当然といえば当然の下剋上ですからね


まず、本能寺の変が起こった時

どうして、織田信長は少数の家臣だけで本能寺にいたのでしょう


当日の織田軍団たちの位置関係を把握しておきましょう!

織田軍団の当日の居場所

○羽柴秀吉(豊臣秀吉)

毛利家を討伐中で、岡山県(備中)に滞在。

○柴田勝家

上杉家を討伐中で、富山県にある魚津城(うおずじょう)に滞在。

○滝川一益

北条軍との戦いの最中で北関東に滞在。

○徳川家康

商売の町、大阪の堺を見学中。


だったのですね。

ちなみに、この時、

家康の連れて来た家臣の数も数十人程度でした。


どうして、こんなに手薄で移動したのでしょう


そうなんです

もう世の中はほぼ織田信長の時代という事だったんですよね。

完全に織田家中は安心しきっていたんです。


つまり、


そんな信長の世の中で起こった

明智光秀の謀反、本能寺の変だったのです!!!!


阿弥陀寺の本堂

こちらが本堂になります。


で、織田信長が本能寺に入ったきっかけは

秀吉「ちょっと毛利を倒すのに手こずってます、信長様・・ちょっと助けてくださいよー!」

信長「仕方のないヤツよのぉ。よっしゃ、行ったる!待っておれっ。」


という事だったんですね。

ま、これは秀吉のヨイショであったとも言われ

ほぼ、毛利家討伐は目の前だったようです。

つまり「最後の仕上げは信長様にしてもらおう」

という計らいだったのでしょう


そして、これが秀吉の陰謀!?だなんて説も。。

それは後ほどお話させていただきますね★


阿弥陀寺の鐘楼

入り口、右手にある鐘楼。


阿弥陀寺の元住職による歌碑

こちらは元住職による歌碑「春立つや 新年古き 米五升」


さて、そんなこんなで


秀吉に応援を頼まれた信長は移動の為に滋賀県にある、安土城を発ち京都、本能寺で一泊する事になりました。


京都はこの時、織田軍であった明智光秀が守っているので

安心していたのでしょう。


わずかの兵だけを引き連れ京都にやって来ます。

ここで軍勢を集め、備中に向かう予定だったんですね。


そして、ここで明智光秀の謀反、つまり裏切りに合ってしまいます。

昨日まで子分(家臣)だった

明智軍13,000の兵が一気に襲いかかってきたのです


阿弥陀寺の織田信長、そして織田信忠父子のお墓

こちらが、織田信長、そして織田信忠父子のお墓!


阿弥陀寺のお墓のすぐ隣に

こちらはお墓のすぐ隣に建っています。


数々の戦国ドラマで描かれる本能寺の変。

寝静まった丑三つ時に

家臣である森蘭丸(もりらんまる)が

廊下をダダダダーーーー!と、走りながら

「信長様!謀反でございまする!水色地に桔梗!光秀様の謀反でございまする!」

というシーンを歴史好きな方なら

一度は見られた事ありますよね


阿弥陀寺の森蘭丸のお墓

その森蘭丸のお墓もあります。


信長はそこから、旗になびく光秀の家紋である桔梗紋を目にするんですね。

そして、対応を迫られた信長は、一言

「是非に及ばず」と残します。


さて、皆さんご存知の通り、

燃え上がる本能寺で自刃し事尽きる信長。


さて、そうなると・・・信長の死体はどこにいったのでしょう??

いくら本能寺が燃えたといっても

信長の骨まで焼き尽くすほどにはなりません。

でもでも、明智光秀が首を取ったという文献はありませんよね。


それもそのはず

信長、最後の命令は「死骸を敵に渡すな」という事だったんです。


阿弥陀寺のこま札

こま札にて解説されています。


ここで登場するのがこの人!!!

当時、阿弥陀寺の住職であった、清玉上人(せいぎょくしょうにん)

本能寺の変を知った、清玉上人が20ばかりのお坊さんを引き連れて行くと

織田軍の数人が、本能寺墓地にある藪の中で信長の遺体を焼いていたそうで

その骨をこの清玉上人が阿弥陀寺に持ち帰ったと言われています。


本能寺の僧のフリをして、明智軍をかわし信長の遺骨を救出したというワケなんですね


阿弥陀寺の織田家の木瓜紋

織田家の木瓜紋もバッチリありました


阿弥陀寺の蓮台山と号する浄土宗の寺院

阿弥陀寺は蓮台山と号する浄土宗の寺院です。


なーんとここで

京子は、阿弥陀寺だけでなく、


そうです、ここ!!!

阿弥陀寺の本能寺跡地

(・∀・)ノ本能寺跡地にも足を向けてみました。


阿弥陀寺の現在は老人ホームと学校

現在は老人ホームと学校が建っていました。


阿弥陀寺の現在の本能寺は寺町に

現在の本能寺は寺町に移動しているんですね。


そして、この本能寺の変によって

天下を取る事となった明智光秀。


ちなみに光秀は、本能寺の変の直前にある歌を詠んでいます。

それが

「時は今 天が下知る 五月哉」(ときはいま あめがしたしる さつきかな)

これは光秀が天下を取る事を決意し詠んだ歌だと言われているんですよね。


「時は今」というのはつまり光秀は、自分の事を「土岐氏の一族」と名乗っており、土岐、つまり「自分は」と置き換えられます。そして、「天が下知る」とは天下を支配するという事なんです。そんな隠されたメッセージがあると伝えられています。


そして、織田を討ち、天下を取った光秀が行った

最初で、最後!?の政策というのが

「京都地子銭免除」(きょうとちじせんめんじょ)

地子銭というのは、土地の税金ですね。

当時は多額の地子銭を収めさせ

民衆は苦労をしっぱなし。。上のモノだけが楽をしていたんですね。


なんと、これをこれを排除するといったもの。

その後、すぐに秀吉により廃止となりますが

京都市民の反発を受け、9年後に復活。

「京に地子銭なきは明智の恩」といわれ、江戸時代まで続く事になったんです。


話は戻りまして、織田信長が本能寺で討たれたその後!

秀吉が光秀謀反による信長の死の一報を聞き

有名な「中国大返し」によって備中から信じられない速さで光秀の元へ討ち取る為に向かいます。


「どうやってそんなスピードで追いついたんだ!?」

「始めから秀吉は光秀の謀反を知っていた!?」


なーんて、言われますけど

秀吉はとにかく、早く明智光秀を討ち取る為に行った移動大作戦。


毛利家との戦いの最中だった秀吉は優勢に戦いを進めていたため

楽勝で、毛利家との和睦に成功。


※この時に秀吉のアイデアで、毛利家には信長の死を隠していたんですね。もしも、バレていたら・・・すぐに和睦は出来なかったでしょうね♪


ちなみに

軍隊の移動は通常、隊列を乱さない為に足並みを揃えてゆっくり歩いていくものなんですよね。

のしのしって感じですね。

ですが、時間をかけてしまうと


・・・他の武将に光秀を討たれてしまう

秀吉は、

誰にも先をこされたくない天下を取るには光秀討伐は自分しかいない


と考えたんですね。


なので誰よりも早く、光秀の元へ向かいます。

そこでとった秀吉のスピードアップ大作戦

それは家来の鎧、兜、武器を外させ軽装でダッシュ!

そして、道中の食事に関して

炊き出しなど、給水ポイント付近は農民に用意させ時間短縮を図ったんですね。

秀吉ならではの見事なアイデアでした。


この後、光秀と秀吉は山崎の合戦で激突。

結果的に光秀は、武者狩りの百姓に竹槍で刺し殺されたんですね。


本能寺の変に関しては、様々な陰謀説があるようです。

しかし、京子が思うに

戦国時代、これはつまり下剋上の時代であります。


「昨日の味方が今日の敵」というのは当たり前の話なんですよね。

ひとつ、考えられるとすれば・・・


光秀が謀反を起こしやすいように秀吉が、信長を光秀の統治する京都に手薄で呼び出した。

と、考えています


そんな阿弥陀寺の場所はコチラ↓


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