メモ2013-04-04
テーマ:ゆかりの地巡り
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本阿弥光悦ゆかりの地巡り

こんにちは京子です!

今回ご紹介するのは・・・

本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)ゆかりの地巡りです


江戸時代初期の芸術家である本阿弥光悦は

『日本のダ・ビンチ』とも言われる芸術家で

書道家、陶芸家、画家といった様々な顔を持つ

マルチアーティストです。


中でも書道家として

『寛永(かんえい)の三筆』の1人に数えられています

※寛永の三筆とは、寛永年間(1624-1644)に活躍した3人の書道家の事です。残り2人は、近衛信尹(このえのぶただ)と松花堂昭乗(しょかどうしょうじょう)です。


今回は、そんな彼の生涯を解説しながら

ゆかりの地をご紹介したいと思います!

光悦は1558年、京都に生まれます

※彼の生まれた5年後には家康により江戸幕府が開かれました。

『本阿弥家』は室町時代初期より

刀の鑑定(目利き)などを生業(なりわい)としていた名家です。


この他にも刀の鞘(さや)や鍔(つば)を製作していたそうで

光悦も幼い頃から、こうした工芸技術を学んでいたようです。

大きくなれば家業を継ぐと思われましたが

その後、父親が分家になった事をきっかけに

光悦は刀を扱う以外にも仕事の幅を広げ

書道や絵画の世界にも深くのめり込む事となりました

※当時、光悦は前田家のお抱えであり、刀の調達や目利き以外にも、漆(うるし)の工芸品などを作っていたようです。


ちなみに

彼が書道家として開花したのは50代だそうで

代表作に

俵屋宗達(たわらやそうたつ)と合作した

『鶴図下絵和歌巻(つるずしたえわかかん)』があります。

※俵屋宗達は建仁寺の「風神雷神図屏風(ふうじんらいじんずびょうぶ)」を描いた事で知られる絵師です。


13メートルもの巨大な作品(巻物)で

宗達が絵を描き、その上に光悦が和歌を書きました。

当時、絵の上に『書』を書くというスタイルは

独創的だったようですね

光悦は、宗達が描いた無数の鶴の上に

三十六歌仙(さんじゅうろっかせん)の和歌を散りばめたのです。

※三十六歌仙とは、平安時代中期の歌人・藤原公任(ふじわらのきんとう)によって選ばれた36人の和歌の名人。


その書体は

実用的な文字を、絵の一部として捉え

大小様々なサイズや太さの文字が

リズムや拍子を付けているかのように書かれています。

この他にも光悦は

京の豪商・角倉素庵(すみのくらそあん)と共同で

当時では珍しい活字本『嵯峨本』を出版しました。


日本に入ってきた

活版印刷の技術(単語別のハンコを組み合わせて文章にし、印刷する技術)で

製本されたものです

※本の内容は、挿絵が入った伊勢物語や徒然草などが収録されています。


こうした幅広い芸術活動は

当時、唯一無二の存在だったのではないでしょうか?


妙蓮寺(みょうれんじ)

妙蓮寺

京都府京都市上京区寺之内通堀川西入ル


こちらの妙蓮寺には

光悦が書き写したと言われる

『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』が所蔵されています。


立正安国論とは

日蓮宗の祖である『日蓮』が

当時(鎌倉時代中期)の最高権力者であった

北条時頼(ほうじょうときより・鎌倉幕府第5代執権)に

向けて書いた教義(きょうぎ・宗教の教え)の書です。

※内容は過激なものとなっていて「相次ぐ災害などの災いは、浄土宗などの邪法を信じているからだ!」などと非難したものです。ちなみに日蓮は、これを見た時頼の逆鱗に触れ、伊豆国に流罪となりました。


同様に、光悦による写し

『始聞仏乗義(しもんぶつじょうぎ・日蓮の書いた教義)』も所蔵しています。

この事からも分かるように

光悦は日蓮宗に帰依していたんですね


本法寺 三つ巴の庭(ほんぽうじ みつどもえのにわ)

本法寺・三つ巴の庭

京都府京都市上京区小川通寺之内上ル本法寺前町617


『書』以外にもマルチな活動をしていた光悦ですが

本法寺には、彼が作庭したと言われる

『三つ巴の庭』を見る事が出来ます。

※枯山水庭園であるこちらの庭は、国の名勝にも指定されています


手前には10個の石を組み合わせた蓮池(はすいけ)を配置し

その奥に『過去・現在・未来』を象徴したと言われる

数々の石を積み上げています。


ちなみに本法寺

本阿弥清信(光悦の祖父)が

日蓮宗の僧・日親(にっしん)を招き建てられたお寺で

本阿弥家の菩提寺にもなりました


光悦寺(こうえつじ)

本法寺

京都府京都市北区鷹峯光悦町29


光悦が晩年過ごしたと言われるのが

鷹ヶ峰(たかがみね・京都市西部)と呼ばれる山間地域です。

光悦寺は彼の没後に建てられたお寺です。


光悦は57歳の時に

徳川家康より鷹ヶ峰の地(約9万坪)を与えられました


これには理由があり

当時、物騒な土地であった鷹ヶ峰を

光悦に与える事で

彼を慕う画家、陶芸家、工芸職人らをここに住ませ

鷹ヶ峰を『芸術村』にしたのです

※それまでは、辻斬りや追い剥ぎ(おいはぎ・通行人を襲い、衣服・持ち物などを奪い取ること。)が絶えなかったようです。


光悦垣

境内にある光悦垣(こうえつがき)です。


当時は56もの屋敷が鷹ヶ峰に

並んでいたと言われています。

こうして光悦は20年以上もの間

鷹ヶ峰の地で創作活動に精を出したそうです。


光悦は、幅広い交友関係で知られ

鷹ヶ峰には、茶人なども訪ねてきたそうです。


光悦自身も陶芸に関して精通していたようで

彼が焼き上げた茶碗『不二山(ふじさん)』は国宝に指定されています。


常照寺(じょうしょうじ)

常照寺

京都府京都市北区鷹峯北鷹峯町1


常照寺

光悦が寄進した土地(鷹ヶ峰)に建てられたお寺です。

1616年、光悦の息子・光瑳(こうさ)が

日蓮宗の僧・日乾(にっかん)を招き開山したそうです


ちなみに光悦寺常照寺は紅葉の名所として

知られています。

是非、秋に足を運ばれる事をおすすめします


こうして晩年を過ごした光悦は

1637年に死去しました。享年79歳でした。


書道をはじめ、様々な芸術作品を残した

マルチアーティスト『本阿弥光悦』ゆかりの地はコチラ↓


より大きな地図で 本阿弥光悦ゆかりの地巡り を表示


1 ■無題

この記事を参考に本阿弥光悦巡りをしてみたいと思います。

まあくんさん 2013-10-21 19:51:30

2 ■Re:無題

>まあくんさん
これからの時期
紅葉がとても綺麗だと思いますよ♪

気をつけていってらっしゃ~い(o^-')b

京子 2013-10-21 23:37:47


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