メモ2012-09-06
テーマ:祭り・イベント

湯立祭 2012(岩城神社)

こんにちは京子です

今回ご紹介するのは

岩城神社

9月6日に『岩城神社(いわしろじんじゃ)』で行われた

湯立祭

湯立祭(ゆたてさい)です

湯立とは

神前に大きな釜を置き、湯を沸かし

その中に塩や酒を入れた後

笹を湯に浸し、周囲に振り撒き

お祓いをして

無病息災を願う神事です。


岩城神社

岩城神社は京都府亀岡市にある神社で

祭神は市杵島比売命(イチキシマヒメノミコト)と大山咋命(オオヤマクイノミコト)です。

清浄や潔白、美人の象徴とも言われる市杵島比売命は

素戔嗚尊(スサノオノミコト)の剣から生まれた神様で

七福神の1人『弁財天』とも同一視されています。

※この事から岩城神社は、かつて弁財天社とも言われていたみたいですよ


大山咋命は

山の神様と言われ『咋』とは『杭(くい)』と同義語だそうです

つまりこの名前は

『山に杭を打つ=山の所有者』という事を表しているそうです。


舞殿

こちらは境内にある舞殿です。


天慶の乱 大逆臣・平将門の最後

舞殿に掲げられた額です。かなり色褪せていますが『天慶の乱 大逆臣・平将門の最後』という絵だと思います。平安時代、関東の武士であった平将門(たいらのまさかど)は『新皇(しんのう)』と自ら名乗り、独立政権を作ろうとして朝廷と対立したんですね。


岩城神社は平安時代後期、1183年に創建されました。

1450年には室町時代の武将『細川勝元』が土地を寄進したと伝わります。


そして1560年には

本能寺の変で知られる『明智光秀』が八木城攻めの

戦勝祈願をしたと言われています

※八木城はかつて、この地にあったお城です。結果的に1579年、城主の内藤氏を破り、光秀は八木城を攻め落としました。


その後、荒廃・再建を繰り返し

現在の社殿は江戸時代前期に建てられたそうです。


本殿

本殿になります。屋根は総檜皮葺き(ひわだぶき)です。檜(ひのき)の樹皮を使っているんですね。


では早速『湯立祭』をレポートしたいと思います

朝10時に到着した京子

本殿の前には湯立祭の準備が整っています


釜

湯を沸かす大きな釜(直径約50センチ)が2つあり

すでに火が着き、煮え立っていました。

中には塩や酒も入っています。


斎竹

そして四隅には斎竹が立ち、注連縄が張られています

ちなみに釜の側面を見ると

釜

文久3年(1863年)と書かれています。


どうやら刻まれた文字を読んでみると

幕末期に氏子町より寄進された釜のようです


湯立祭

しばらくすると神職の方を先頭に

氏子町の代表5名が参加されます。

まず本殿の前に並び、お祓いや祝詞(のりと)の奏上が行われます


お祓い

裃を着た氏子町の方々が、お祓いを受けます。


祝詞

祭神に向かって祝詞が上げられます。


次に釜の前へと移動します。

湯立祭

神職の方が煮立った湯に、じっくり笹を浸すと・・

真上に向けて湯を振り撒きます!

まずは境内をお祓いして清めます。


笹を使って湯を振り撒く様子を動画でどうぞ!


続いて2つ目の釜に笹を浸すと

今度は氏子町の方々に湯を振り撒きます。


こうして罪穢れを祓い、氏子町の無病息災を願うんですね。

この後、本殿に笹を一旦お供えし

最後に玉串を奉納し、神事は終了しました


ちなみに湯立は

かつて『問湯(といゆ)』と呼ばれていて

現在のようなお祓いの意味合いではなく

卜占(ぼくせん・占い)の一種だったそうです

※湯のしぶきによって占うという事です。


平安時代には

宮中行事の1つとして行われていたんですよ


笹と御神饌

神事の後、参拝者に

使用した笹や御神饌(お供え物)が配られました。


残りの笹は

周辺の氏子町82世帯に配られるそうですよ


そんな湯立祭が行われた岩城神社の場所はコチラ↓


大きな地図で見る


1 ■無題

初めまして。我が家の氏神様をご紹介いただきありがとうございます。子供の頃は境内と隣接する弓場で遊びました。私達の祖先は時代祭の最後尾を務める「弓箭組」です。今も私の本家の方など4名ほどが「南桑弓箭組」のメンバーとして参加なさっておられます。桓武天皇の時代から弓矢の技術を磨いて警護に召集されていたようですね。私が生まれる前の昭和20年代までは弓場で氏子による競技もしていたそうです。今は行われていませんが各家に弓矢はあります。

言い伝えによると明智光秀が丹波を平定した際に我が北ノ庄村にも攻めて来たのですが、田舎の農民のはずが弓矢や薙刀などに優れた者が多くて明智軍は苦戦したそうです。光秀が武勇を褒め称えて家紋に桔梗の使用を許可し、家来として八木城攻略に参加させたそうで、その時の功績で光秀から与えられたという家紋入りの甲冑を今も家宝として受け継いでいる家があります。

また別の言い伝えでは、倶利伽羅峠で戦死した俣野五郎景久の一族が落ちのびて当地の女性達と結ばれたという事で、元来の弓箭の能力に加えて東国の武士の血も入って武勇を誇る一族であったようです。

NMさん 2018-08-29 22:01:23