メモ2011-03-09
テーマ:お寺

正伝永源院

こんにちは京子です。

さて、本日は・・・

正伝永源院の正門

正伝永源院(しょうでんえいげんいん)です。

建仁寺の塔頭で、道を挟んですぐ隣にあります。


「正伝院」と「永源庵」という2つのお寺が、明治期になり合併したんですね。現在、特別公開中という事でご紹介させて頂きます


正伝永源院の駒札

正伝院は

織田信長の末弟であり、大名茶人でもある

織田有楽斎(おだうらくさい)

が再興し茶室を建てた事でも有名です。

東京の地名のひとつである有楽町はこの有楽斎の屋敷があった事からそう名付けられた、という説があります。


京都や大阪にも以前は有楽町という地名が存在していたようで実際に有楽斎の屋敷があったそうです。


正伝永源院にある織田有楽斎の石碑

境内には織田有楽斎のお墓もあるとの事です。


では、中へ入ってみましょう。


織田有楽斎は、またの名を織田長益(ながます)と言い

兄の信長に仕えていました。


目立った武功はそれほど無く、後生は茶人として生きた事から兄の信長とは対照的な人物だと言えますね。


本能寺の変で、兄の信長が討たれた際は甥にあたる信忠(信長の嫡男)と供に二条城にて明智軍に襲われる事となります。

※家康が建てた現在の二条城ではありません。


信忠は、覚悟を決め、二条城で自害したのに対して有楽斎は城を脱出し、近江安土から岐阜へと逃げ延びたんですね。


武士らしい潔い一面はあまり感じない有楽斎。

この出来事から、京の人たちからは

「織田の源五(有楽斎の通称)は人ではないよ

お腹召させておいて われは安土へ逃げる源五

六月二日に大水出て織田の源なる名を流す」

と皮肉られたそうです。


正伝永源院の庫裏

境内に入りますと、まず庫裏(くり)が見えました。


正伝永源院にある織田有楽斎のお墓

そして、庫裏の左手には織田有楽斎のお墓があります。

隣には有楽斎夫人のお墓も並んでいましたよ。


正伝永源院にある肥後細川氏のお墓

有楽斎のお墓の向かいにありますのは

肥後細川氏のお墓です。

正伝院と合併した永源庵は、細川家の菩提寺でした。

この肥後細川氏の末裔にあたる人物が、細川元首相なんです。


正伝永源院の方丈

こちらの方丈の中には寺宝と呼ばれるものが幾つかあります


正伝永源院のポスター有楽斎の木像と襖絵「蓮鷺図(れんろず)」

それが有楽斎の木像と襖絵「蓮鷺図(れんろず)」です。

※撮影禁止でしたので立て看板を掲載しています。


蓮鷺図は狩野派の絵師である、狩野山楽 (かのうさんらく)によるものだと言われています。


蓮(はす)の花のつぼみから枯れ落ちるまでの、一生を描いた作品です。

部屋一面、この蓮を描いた襖で取り囲まれていましたよ。


正伝永源院に咲いている梅の花

境内には梅の花が咲いていました。

正伝永源院にある方丈前のお庭

方丈前のお庭です。


さて、本能寺の変では臆病者と揶揄された有楽斎でしたけれど

その後は徳川家に仕え、関ヶ原の戦いでは武功を上げます


大坂冬の陣には

大阪城内にて淀殿や豊臣秀頼のサポートをしますが

豊臣陣営の強硬派と対立し

大坂夏の陣を前に

豊臣家から離れ隠居する事となるんですね。


ちなみに、千利休の弟子でもあった有楽斎は「千家十哲の一人」としても有名なんです。


正伝永源院にある茶室「如庵(じょあん)」

有楽斎は、正伝院の再興の時に茶室「如庵(じょあん)」を建てました。

当時の建物は愛知県へと移されましたが

こうして正伝永源院にて復元されています。


如庵には、有楽窓と呼ばれる細い竹を隙間無く並べた窓が付いています。

有楽斎はキリスト教に

帰依していたそうで茶室である如庵という名前は

洗礼名であるJoan(ジョアン)から

名付けられたなんていう説もあるそうですよ。


彼の残した有楽流(うらくりゅう)と呼ばれる茶道の流派は現在でも継承されているという事からも武士よりも、茶人として後世に語り継がれています。


そんな織田信長の弟であり、茶人としても有名な

織田有楽斎ゆかりの正伝永源院の場所はコチラ↓


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