今回ご紹介するのは

京都にある血天井(ちてんじょう)を巡る

京の血天井めぐりです!


今から約400年前の1600年(慶長5年)…


天下分け目の関ヶ原の戦い
(せきがはらのたたかい)が起こる前
その前哨戦とも言える戦い
『伏見城の戦い(ふしみじょうのたたかい)』
がありました


豊臣恩顧の武将である

石田三成(いしだみつなり)と

徳川家康(とくがわいえやす)の家臣であった

鳥居元忠(とりいもとただ)が戦ったんですね


秀吉亡き後の政治の主導権を

虎視眈々(こしたんたん)と狙っていた家康が

豊臣政権の五大老の1人である

上杉景勝(うえすぎかげかつ)を討伐する為

居城であった伏見城を出発します


その留守を任されたのが
家康の絶対の忠臣であった
元忠だったんですね


家康は、会津征伐に大群を引き連れ出かけた為

伏見城は手薄となり、少数の家臣だけで

城を守る事になりました


この間に反家康側である三成が攻めてくれば

遠く離れた味方(家康)からの

後詰め(応援・援護)に時間がかかり

防戦が出来ない事が予想されます


そしてもちろんその隙を突いて
三成は攻めて来たんですね!


実際の兵力は

反家康側の三成の兵力が4万に対し

徳川側の元忠は、兵力わずか1800人だったと

いわれています


伏見城は朱に染まったと言われる程の
壮絶な戦いとなり、約10日に渡る
攻防戦を繰り広げるも結果は
徳川側の元忠が敗れ、自刃に追い込まれます。


伏見城落城の際に元忠をはじめ

1200余の人が割腹をして果てたと伝わっています。

元忠は、享年62歳の生涯に幕を下ろしました


源光庵の鳥居元忠の位牌

源光庵の鳥居元忠の位牌


元忠を伏見城で討ったのは

鉄砲傭兵集団の雑賀衆の頭領

雑賀孫一(さいかまごいち)という

石山合戦(いしやまがっせん)で

織田信長(おだのぶなが)を撃ち

重症にまで追い込んだ人物であります


その後、忠義を尽くした
元忠の供養の為に
家康は血痕の残る床板を
京都の複数の寺に移したんですね。


床板には、生々しい血痕の跡が

当時の凄まじさを物語っているんですけれど

それが今日伝わっている血天井というワケです


それでは、早速ご紹介していきましょう

※五十音順です。


源光庵(げんこうあん)


源光庵


場所:京都市北区鷹峯北鷹峯町47


源光庵は、室町時代

大徳寺(だいとくじ)の初代住職を努めた

徹翁義亨(てつおうぎこう)が

隠居所として開基したのが始まりで

曹洞宗(そうとうしゅう)のお寺です


本堂にある『悟りの窓』と
『迷いの窓』は、あまりにも有名で
知らない方はいないのではないでしょうか♪


源光庵の悟りの窓

源光庵の悟りの窓


源光庵の迷いの窓

源光庵の迷いの窓


悟りの窓の丸い窓は

宇宙を表していると共に

『禅と円通(観音様)』の心を表現したもの

つまり、禅の無心さと

観音様のような穏やかな心を表しているのに対し

迷いの窓の四角い窓は

『生老病死(しょうろうびょうし)の4つ』

つまり、生まれる事、老いる事、病気、そして死ぬ事という

この世で避ける事の出来ない

4種類の苦悩を表現しているといわれています


そんな源光庵にある伏見城の遺構の

血天井がこちらです


源光庵の血天井

源光庵血天井


源光庵の血天井の足型

源光庵血天井の足型


興聖寺(こうしょうじ)


興聖寺(こうしょうじ)


場所:宇治市宇治山田27-1


興聖寺は、京都府宇治市の

宇治山田(うじやまだ)にある曹洞宗のお寺で

1233年(天福元年)に道元(どうげん)が

伏見区深草宝塔寺山町付近に

かつてあったとされる安養院内に

曹洞宗の道場として開いたのが始まりです


かつて宇治七名園の1つ
『朝日茶園』があった場所としても
知られているんですね


総門(石門)

総門(石門)


また、総門(石門)から山門まで

一直線に伸びる約200mの参道の坂道は

『琴坂(ことざか)』と呼ばれ

桜や楓、山吹の名所として有名で

京都のガイドブックとも言える

『京羽二重(きょうはぶたえ))』

載っている宇治の12の名勝

『宇治十二景』の1つにも数えられています


そんな興聖寺にある伏見城の遺構の

血天井がこちらです


興聖寺の血天井

興聖寺血天井


血天井の足の染み

血天井の足の染み


血天井の手の染み

血天井の手足の染み


正伝寺(しょうでんじ)


正伝寺


場所:京都市北区西賀茂北鎮守菴町72


正伝寺は、正式名称を

『正伝護国禅寺(しょうでんごこくぜんじ)』

と言う臨済宗南禅寺派のお寺です


播磨(はりま・現在の兵庫県南姫路市)出身の

東巌慧安(とうがんゑあん)が開山で

もともと烏丸今出川(からすまいまでがわ)に

創建したそうなんですけれど

賀茂社の社家である森経久(もりつねひさ)の

援助を受けて現在地に移ったといわれているんですね


境内には、小堀遠州
(こぼりえんしゅう)が作庭した
『獅子の児渡し(ししのこわたし)』
と呼ばれる枯山水庭園が
ある事でも知られています


獅子の児渡しの庭

獅子の児渡しの庭


比叡山(ひえいざん)を借景に

白川砂を敷き詰め七五三調に並べられた

サツキの刈り込みが大変美しいお庭なんですね


そんな正伝寺にある伏見城の遺構の

血天井がこちらです


正伝寺の血天井

正伝寺血天井


手形や足跡、指の形がくっきり残る血天井

手形や足跡、指の形がくっきり残る血天井


宝泉院(ほうせんいん)


宝泉院


場所:京都市左京区大原勝林院町187


宝泉院は、比叡山の麓

大原(おおはら)にある天台宗のお寺で

平安時代に慈覚大師(じがくだいし)の

円仁(えんにん)が仏教音楽の

声明(しょうみょう)の専門道場として

創建したのが始まりといわれています


声明とは、インドから伝わった

お経に節やリズムをつけた仏教音楽の声楽の事で

円仁が唐から持ち帰ったといわれているんですね


また、境内には、まるで額縁の中に
閉じ込めたような『額縁庭園』が
ある事で知られ、庭園には
京都市の天然記念物に指定されている
樹齢700年の『五葉の松
(ごようのまつ)』があります


額縁庭園

額縁庭園


また、西側の庭には

立ち去り難いという意味で付けられた

『盤桓園(ばんかんえん)』

あるんですよ


盤桓園(ばんかんえん)

盤桓園(ばんかんえん)


そんな宝泉院にある伏見城の遺構の

血天井がこちらです


宝泉院の血天井

宝泉院血天井


養源院(ようげんいん)


養源院の本堂


場所:京都市東山区三十三間堂廻り町656


養源院は、秀吉の側室の淀殿(よどどの)が

父である浅井長政(あざいながまさ)の

菩提を弔う為に創建したお寺で

養源院という寺名も長政の院号(将軍家の戒名)

養源院天英宗清
(ようげんいんてんえいそうせい)』

にちなんだものなんだそうです


本堂には、江戸時代初期の琳派(りんぱ)の絵師

『俵屋宗達(たわらやそうたつ)』

杉の引き戸に描いた

『白象図(はくぞうず)』

『唐獅子図(からじしず)』

『波と麒麟図(なみときりんず)』等の

『杉戸絵(すぎどえ)』

ある事でも知られているんですね~


ちなみにこの杉戸絵は宗達が
元忠らの霊を供養する為に
描いたと伝わっているんですよ


そんな養源院ですから当然、伏見城の遺構の

血天井があるんですけれど

本堂内は写真撮影が禁止されている為

お見せする事が出来ないんです


気になる方は、直接見に行かれるか

養源院のホームページに載っているので

そちらで確認してみて下さいね


という事で今回は、京都にある血天井を巡る

京の血天井めぐりをご紹介しました~


京都にある血天井の場所はコチラ↓

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