今回ご紹介するのは

京都市上京区にある

お別れ地蔵

お別れ地蔵です!


場所は北野天満宮(きたのてんまんぐう)の


北野天満宮

北野天満宮


斜め向かいの場所で

今出川通沿いにあるんですよ。


それにしてもお別れ地蔵だなんて

なんだか寂しいネーミングですよね。


このお地蔵さんが

なぜお別れ地蔵と呼ばれているのかは

また後ほどご説明したいと思います


ちなみにお別れ地蔵は

お堂の厨子(ずし・仏壇)の中に

安置されていて見る事が出来ないんですよ~


普段、お堂では


阿弥陀如来像

阿弥陀如来像を見ることが出来るようになっています。


さて、まずはこのお地蔵さんが

この場所に安置された経緯をご説明しますね。


こちらのお別れ地蔵なんですけれど

実はもともと若狭国小浜(わかさのくにおばま:現在の福井県)に あったものと伝えられています。


説明板

その若狭国小浜にあったお別れ地蔵は

明治時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の

難を逃れるために

なんと!年老いたお坊さんによって

京都まで背負われてきたんだそうですよ


けれど、お坊さんは

ここ紙屋町(かみやちょう)で

力尽きて倒れてしまうんですね。

そうなりますよね

むしろここまで運んで来れた事に

ビックリです


ちなみに廃仏毀釈とは・・・


江戸時代、日本は寺請制度(てらうけせいど)により

お寺に役所の代わりをさせて

民間を管理していました。


しかし1868年(慶応4年)

明治政府よって出された

神仏分離令(しんぶつぶんりれい)によって

神社から仏教的なものを払拭する事になります。

つまり神社とお寺を明確に分けなさい!という制度なんですよ。


それまでの日本は

神社の中にお地蔵さんがあったり

お寺の中にお社があったりする

神仏習合(しんぶつしゅうごう)が

当たり前だったんですね。


しかしこういった神仏習合は幕末になると

日本独自の宗教である神道が

外国の宗教(仏教)によって

穢されていると考えられるようになっていきます


その後、明治政府は

日本独自の宗教である神道を国教化し

神仏習合が当たり前になるより

もっと前の本来の神道に戻すため

きちんと分けましょう!としたわけなんですね。


しかしその神仏分離令は

一部の民衆に仏教を排斥したような

イメージを与えたとも言われ

そういった人達がお寺に対する不信感を持ったために

お寺や一部の民衆が『仏具の破壊』を

始めてしまったと言われています。


それが廃仏毀釈なんですよ。


話を戻しまして

その後、お地蔵さんはどうなったのかと言いますと

紙屋町の人達が

お地蔵さんをお祀りする為に

祠を建てました


石仏

お堂の右側にも、別のお地蔵さんが安置されています。


そういった理由から

このお地蔵さんは

ここ紙屋町に安置されたんですね


肝心のお別れ地蔵と

呼ばれる理由はと言いますと・・・


当時この場所は

金閣寺の裏にあった

葬儀場である蓮華谷(れんげだに)へと

葬列が通る道だったそうです。


そして葬列がこのお地蔵さんを通る頃

葬列者は亡くなった人と

今生の別れをし

お地蔵さんに極楽浄土で

生まれ変われるように祈願したんだそうですよ。


そういった事から

いつしかこのお地蔵さんは

お別れ地蔵と呼ばれるようになったというわけなんですね。


お別れというと少し寂しい気もするんですけれど

今まで何人もの人が極楽浄土へ旅立てるように

見送ってきた

見送り地蔵でもあるという事ですよね

※ちなみに現在は、もともと安置されていた場所より東に50メートル程移動したみたいです。


そんなお別れ地蔵の場所はコチラ↓


より大きな地図で お別れ地蔵 を表示
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