今回は、幕末ファンなら

一度は足を運んでおきたい跡地の1つ・・

近江屋跡(おうみやあと)をご紹介したいと思います


『近江屋』という名前を聞いただけで

もう皆さんピンときますよね?

そうですっ!幕末、この近江屋にて

坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されたんですね。


坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難之地(近江屋跡)

この事から現在では、近江屋跡地に

『坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難之地』と書かれた

石碑が建っています。


この事件が起こったのは

慶応3年(1867年)11月15日、夜の事でした。

※この日は龍馬の誕生日でもあったそうですよ


当日、龍馬は近江屋に身を隠していて

そこに同志である中岡慎太郎が訪ねて来たんですね

※この時、中岡慎太郎は新選組に捕らえられた宮川助五郎(みやがわすけごろう・土佐藩士)の身柄処分について、土佐藩邸の福岡孝弟(ふくおかたかちか)を訪ねたそうです。しかし不在だった為、近江屋にいる龍馬の元に相談に行ったと言われています。


こま札

龍馬は数日前から風邪を引いていた事もあり

近江屋・母屋の2階で、中岡慎太郎と会う事になったのです。


ちなみに、母屋の2階は全部で4部屋あったそうで

2人は奥の八畳の間で、火鉢を挟んで話し込んでいたと言われています。


長らく話し込んでいたそうですが

気付くと・・・龍馬は腹が減っていたようで

峰吉(みねきち・世話役の少年)に

「軍鶏鍋(しゃもなべ)でも食おう。買うてきてや。」と使いに行かせたのです。


こうして体の温まる鍋を食べようと

峰吉の帰りを待っていた時に

・・・・事件は起こり、龍馬と中岡慎太郎は

刺客による襲撃を受けたんですね!!

※この時、同じく近江屋の2階にいた、山田藤吉(龍馬の世話役)も同時に襲われたと言われています。


龍馬や山田藤吉は即死

中岡慎太郎はその翌々日の17日に息を引き取ったと言われています

この近江屋事件は、小説やドラマで何度も描かれていますが

実際の所は、確かな資料など残っておらず

創作によって、様々に語られているんですね。


ちなみに、犯人に関しては、現在のところ

京都見廻組の今井信郎の自供によって解決しているそうですよ


霊山護国神社

そんな2人のお墓は、霊山護国神社(りょうざんごこくじんじゃ)に建てられています。彼らの命日には、『龍馬祭』が墓前にて行われるんですよ。詳しくは龍馬祭 2011(霊山護国神社)の記事をご覧下さい。


そんな『近江屋』は、土佐藩御用達の醤油屋であり

事件の数日前から龍馬をかくまっていたそうです。


これにも紆余曲折あったようで

それまで龍馬が寝床にしていた酢屋(すや)が

幕府の役人に目を付けられてしまい

急遽、近江屋に身を寄せる事になったと言われています


こうして近江屋の主人・井口新助は

土蔵(どぞう・蔵)を改造し、龍馬に寝床を提供したと言われています。


誓願寺

万が一、近江屋が襲われた際は

この土蔵からハシゴを使い、裏手にある誓願寺(せいがんじ)の境内に

逃げ込めるようになっていたそうですよ~


まさに準備周到!

しかしながら当日は、母屋で襲撃を受けてしまう事となったんですね・・。


ちなみに、井口新助は近江屋の二代目で

土佐藩御用達の醤油屋として財を成すと、その金で維新志士たちに

援助をしたと言われています。


襲撃を受けた日は、近江屋の裏口から抜け出して

急いで土佐藩邸へ知らせに走ったようですね

※近江屋と土佐藩邸は数十メートルの距離なんですよ。


この他、井口新助は鳥羽伏見の戦い(1868年)においても

官軍に対して援助を惜しまず

軍資金や食糧を提供し続けたそうです


という事で

坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難之地(近江屋跡)

をご紹介させていただきました

場所はこちら↓


大きな地図で見る

タイトル
コメント
※必須項目です。
コメントに関する注意点
※個人や特定の団体に対する誹謗中傷は、削除させていただく場合がございます。ご了承下さい。
※記事と関係の無いコメントに関しても削除する場合があります。
※投稿後は編集や削除ができません。

画像認証
※必須項目です。

※上の画像で表示されている文字を入力してください。

ニックネーム
ブログURL
※ブログをお持ちの方はURLをどうぞ。
※不適切なリンクは削除される場合があります。

イベントカレンダー

祇園祭のイベント一覧

京都検定過去問

萩の名所巡り

京の茅の輪巡り

半夏生の名所巡り

一初の名所巡り

山吹の名所巡り

椿の名所巡り

桜の名所巡り

梅の名所巡り

雑談掲示板 新着