こんにちは、京子です

さて、本日ご紹介するお寺は・・・


大徳寺の表門

大徳寺(だいとくじ)です。

まず、最初に言っておきますと

大徳寺はものすごーく広くて


大徳寺の境内図

こちらの案内板にもあるように

数々の塔頭が集まっているんですね

総見院や、高桐院は以前にも記事でご紹介しています。よければご覧ください

境内には、23もの寺院が所狭しと立ち並んでいますよ。


大徳寺のこま札

大徳寺は1315年に宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)というお坊さんにより建てられます。

その後、応仁の乱で焼失しますが、

アニメ一休さんでおなじみの、一休宗純によって再建。

織田信長のお葬式などが行われたのも、この大徳寺なんです。


その広い境内は

東西南北どこからでも入る事が出来るんですけれど

いくつか門がありますので、まずはそれをご紹介したいと思います

ちなみに、冒頭にアップしたのが総門(そうもん)で

拝観される方の出入りが一番多い門なんです。

大徳寺の梶井門

梶井門(かじいもん)

現在は、閉鎖されている門です。京都の大原にある三千院はもともと大徳寺の近くにあり「梶井御所」と呼ばれていました。その時の梶井御所の門がこちらで、後に門だけを残して梶井御所は大原へと移ったんですね。


大徳寺の南門

南門(みなみもん)

目の前には北大路通りが走っています。


さて次に

境内に入ると勅使門、三門、仏殿、法堂が南北に一直線に並び後方に庫裏、東に方丈が配置されるという、典型的な禅宗寺院の伽藍配置になっています。


大徳寺の勅使門

勅使門(ちょくしもん)

これは一般の人はもちろん出入り禁止の門で、天皇からの勅使(使い)が通る時に開けられる門です。

後水尾天皇から寄進されたものだそうですよ。


大徳寺の三門

三門(さんもん)

大徳寺、最古の建造物で重要文化財にも指定されています。

創建、当初は一階部分だけだったんですが

後に二階部分が増築されました。


この、二階部分を作ったのが・・・

わび茶というスタイルを完成させた茶人

千利休です

ちなみに、大徳寺は茶道との関わりが深く

ほとんどの塔頭にも茶室が備えられています。

この事から「大徳寺の茶面」と言われているんですね。


わびさびを完成させた千利休の最後は

どのようなものだったかと言いますと


以前にも書きましたけれど

豊臣秀吉の逆鱗に触れ

・・・切腹を命じられちゃうんですよね。


その原因のひとつになったと言えるのが、大徳寺の三門にあります。

利休は三門の二階部分を付け加え

新たに金毛閣(きんもうかく)と名付けました。

そして利休は金毛閣の二階部分に

雪駄を履いた自分の木像を安置したんですね


うーん、ここまではよかったんです

大徳寺における、千利休の権力の大きさが分かるエピソードですよね。


しかし

この話には続きがありまして

その金毛閣の下を

ある大物に潜らせてしまったんです。

(もちろん門ですから、当然潜るんですけど)

誰を潜らせたのか・・・


そう・・・


そうなんです。


天下人、豊臣秀吉がくぐったんですね

平康頼之塔

勅使門左手にある平康頼(たいらのやすより)之塔。平安末~鎌倉前期にかけての歌人、平康頼の供養塔です。鹿ケ谷の陰謀の首謀者の一人で流罪になります。ハングリーな康頼は、流罪先で1000本もの卒塔婆(とうば)に郷愁を歌い記し海に流したそうです。このうちの1本が清盛の元へ流れ着き、心を打たれた清盛は罪を許し、康頼は京に戻れたという逸話があります。


大徳寺の仏殿

三門(金毛閣)の後ろには1665年に再建された仏殿があります。中には仏像が安置されていました。


大徳寺のイブキ

仏殿の前には、再建と同年に植えられたイブキがあります。


門を潜った秀吉は

自分の頭の上に利休の木像がある事を知ってしまいます。

そして逆鱗に触れるんですね。


「なんじゃとー!利休!

お前の足の下をワシに通らせたという事か!?

お前の方がワシより上だと言うのか!?」

と、言語道断の無礼者だと、怒りをあらわにしたと言われています


まさか、それだけで切腹

というワケではないでしょうけれど、徐々に利休と秀吉の間に確執が生まれ、秀吉にとって利休が邪魔な存在になってしまったという事が結論だったんですね。


そして利休は切腹に至りました。


しかし、秀吉の怒りは、切腹させるだけでは治まらず、金毛閣に安置されていた利休の木像を引きずり出し利休の首の上に木像を置き、首を踏ませた上で一条戻り橋で、さらし首にするという・・・まさにすごい仕打ち。

その利休の首の側に建てられた立て札には

この金毛閣の事が罪状として記載されていました。


利休の切腹にはいくつかの原因があり上記のお話以外にも、政治的な原因もあると言われています。

だけど、根本的に言えるのは

・・利休と秀吉って、本来合わない存在だったんだと思いますね。

秀吉は黄金の茶室を好み

利休は質素(わび)な茶室を好む。

そんな2人は対照的な存在であったと言えるんじゃないでしょうか

お話は大徳寺に戻しまして


鷺森神社の正面

仏殿の後ろには法堂があります。

そして、この2つは渡り廊下で結ばれているんですね。

一直線上に並べられた勅使門や、三門、仏殿、法堂なんですけれど

その中は全て立ち入り禁止になっています。


それぞれの伽藍の横を

鷺森神社の正面

1本の大きな道が通っていて

そこから拝見する事が出来るようになっています

鷺森神社の正面

なので、正面から伽藍を撮影する事が出来ないんですけど

こちらはその横を通る道から撮影した一枚


この先に経堂と鐘楼があるんです。

※勅使門や、三門、仏殿、法堂などの更に奥に、経堂と鐘楼は配置していました。

鷺森神社の正面

広い境内ですけれど、休憩にもってこいの大徳寺茶所も発見

鷺森神社の正面

中ではお茶を頂く事も出来ますよ~

もちろんセルフサービス!

外国人の観光客も多いのか、片方のポットには「PUSH」の文字が!

ここで、お茶を頂きながら

大徳寺の茶面を眺めるのも、いいかもしれませんね

鷺森神社の正面

茶所には大黒さんもいらっしゃいましたよ。


さて、大徳寺と言えば

千利休ともうひとり忘れてならないのが


一休宗純

アニメの一休さんのモデルになったお坊さんですよね

鷺森神社の正面

茶所の隣には千躰地蔵塚(せんたいじぞうづか)があります、実際は700体ほどだそうですよ。


81歳で、この大徳寺の住職となった一休は応仁の乱により被害を受けた大徳寺の再建に着手。

堺の豪商の協力を得て、復興したという事です。

一休さんは庶民に人気の、変わり者のお坊さんだった事は有名で


意外な一面もあるんですよね。

詳しいエピソードについてはこちらで詳しく書いてます。

よろしければ、ご覧ください


最後は切腹にて生涯を終えた利休でしたけれど

利休が完成させた「わび茶」は現代においても脈々と受け継がれ

子孫たちによって「表千家」「裏千家」「武者小路千家」と呼ばれる

三千家が

今も尚、流派として続いています。

現代人の私達にも、利休の教えが広く伝わっているという証ですね。


天下人と天下一の茶人

秀吉と利休は対照的でありながら

どちらも後の世に与えた影響は数知れません


そんな利休ゆかりの大徳寺の場所はコチラ↓


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