こんにちは京子です

あの!織田信長の葬儀が行われた大徳寺

今回は

その大徳寺の塔頭である・・・

総見院

総見院(そうけんいん)です


こちらは、現在春の特別公開中という事で

今回、ご紹介させて頂こうと思いますっ


さて、織田信長が明智光秀によって本能寺の変で討たれた事は

皆さんご存知だと思いますけど

その信長のお葬式が行われたのが大徳寺なんですね~っ

信長の葬式を取り仕切ったのは、もちろん秀吉なんですけど

その秀吉は、信長の一周忌を目前に

大徳寺の境内に塔頭である、総見院を建てたんですね

総見院の信長公廟所

ちなみに、「総見院」という名前は

織田信長の戒名である

総見院殿贈大相国一品泰巌尊儀

(そうけんいんでんぞうだいしょうこくいっぽんたいげんそんぎ)

と、いうお名前から取られました~っ


そして、総見院と供に作られたのが・・・

信長の像なんですねっ!

総見院の立て看板

「織田信長坐像」

もちろん重要文化財ですよ~


本物はもちろん

撮影禁止なのでこちらの縦看板でご了承くださーい

秀吉曰く、

「信長様そっくりじゃ・・・」

と納得のクオリティであるこの織田信長坐像は

高さ約115センチなんですけど

この坐像がもしも立つと160センチらしくて

丁度、織田信長と同じ高さなんですね~。

つまり、実物大!!

顔もそっくりで、体の大きさもそっくりに作られたそうです


では、中に入ってみましょー

門を潜ると、向かって左手に見えるのが

総見院の本堂

本堂ですね~っ

こちらに!先ほどご説明しました「織田信長坐像」があります。


この、織田信長坐像

あれれ

そういえば、公家のカッコみたいなのしてると思いませんか

どうしてなんでしょう?

そのヒントは信長の戒名に隠されていまーす


総見院殿贈大相国一品泰巌尊儀


この「大相国」と言うのは・・・太政大臣の事なんですね


本能寺の変の後、太政大臣の位が贈られたので

このような服装になっているという事です

そして、本堂の右奥にある廊下は屋根に覆われていて

茶室へと続いています


その屋根の天井部分に取り付けられているのが・・・

総見院の輿

輿っ。

明治期、廃仏毀釈により、こちらの総見院も

数々の仏具が破壊されたようですけれど

「織田信長坐像」だけは守らねば

と移動させていたそうです。


そして、廃仏毀釈も落ち着き、総見院に戻そうとした時に

やっぱり素手で触ったら畏れ多いなぁという事から

これに織田信長坐像を載せて運んだんですね


さてさてっ

織田信長と言えば・・・京子は史上最強の戦国大名だと思っています


皆さん、それぞれ自分の中で

名だたる武将の名前が挙がるとは思いますけど

京子が思う

織田信長が最強なトコロ


(・∀・)ノその1「軍事力がスゴかった」

だって、幕末ってペリーがやって来て開国しろー!と迫られた日本ですけど戦国時代ってこうはならなかったのは、やっぱり日本が強かったからなんですよね。


宣教師として来ていたルイスフロイス。

もちろん、布教活動もありますけど

もう一つの目的は日本の情報収集をしていたんですね。

つまり、ルイスフロイスが

「日本って弱いっすよ~イケそうっすよ」

と母国に伝えれば

いつ大軍が日本に押し寄せて来ても

おかしくないハズですもんね~

鉄砲に関しても信長は大量の火縄銃を保持していました

保持するだけでなく日本で生産もしていたので

量産体制が取られていたんです

世界で一番鉄砲を持ってたと言われています。


武田軍と戦った「長篠の戦い」でも3000丁もの鉄砲で勝った事は有名ですね

総見院の寿安席

本堂奥には茶室が3つあり、こちらはそのうちの一つ「寿安席(じゅあんせき)」


総見院の寿安席内部

寿安の内部です、襖には豊臣家の家紋である「五七桐(ごしちのきり)」が描かれています。


そして、ペリーが黒船で日本にやって来るはるか前に

織田信長は鉄の船をもう作っていたんですね。

それが・・・鉄甲船(てっこうせん)


当時、船はもちろん木だったんですけど。

これがよく燃える

いくら武力があっても船が燃やされては意味がない。

そこで信長は燃えない船を作るのじゃ~と作ったのが鉄甲船。


厚さ3mm程の鉄板で覆われ、大砲も装備した当時おそらく最強の軍艦だと思います。

もちろん、蒸気で動いていないので長距離移動が出来なかったり

スピードが出なかったりと、デメリットもあるとは思いますけど

鉄甲船は、敵からすると

・・・超巨大要塞に映ったのではないでしょうか


総見院のほう庵

茶室2つ目!「ほう庵」です。※「ほう」は广に竜と書きます。


総見院の香雲軒

茶室3つ目!「香雲軒(こううんけん)」


さて、京子の信長最強説は一旦置いておきまして

茶室が並ぶ中を進むと

丁度、本堂の裏手あたりになる場所に

総見院の掘り抜き井戸

「掘り抜き井戸」がありますもちろん現役っ。

この井戸に使われている石は

秀吉の命じた朝鮮出兵の際に加藤清正が持ち帰った石なんですね~。

高桐院にも、そういえば加藤清正が朝鮮から

持って帰って来た石がありましたけど


どうして、こんなに石を持ち帰ってきたの

と言いますと、日本から出る時は人も食料も大量に乗っていますけど帰りは軽くなっちゃうので、そのバランスを取る為に石を乗せていたそうですよ♪

総見院の胡蝶侘助

胡蝶侘助(こちょうわびすけ)

こちらは秀吉寄進のものと言われていて、樹齢は400年との事ですっ


さて、織田信長が最強なトコロ

(・∀・)ノその2「楽市楽座の制定」

これは信長の行った経済政策です


簡単に言うと商売の規制緩和を図ったという事なんです。


「座」と呼ばれた独占販売業者を解散させ

誰でもどんなモノでも自由に売り買い出来るようになったんですね~。

※絹や布など高価なものは限られた人しか販売出来ませんでした。


そして、関所を撤廃し

自由に誰でも出入り出来るようになりました

つまーりっ誰もが、どんなモノをどんな場所で売ってもOKよ。そんな信長王国にいらっしゃい!という政策ですよね


こうすると

人はどんどん尾張や安土、近江へと集まって来ます。


人が集まればモノが売れる

人が集まれば情報が沢山入ってくる

「人」「金」「物」

この3つを欲しいままにしたのです。


もちろん、物が売れれば税金が信長に入ります


その金で軍事力も強化出来る。

まさに、戦国時代の中で、これほどまでに

経済力と軍事力を兼ね備えた織田信長は

史上最強の大名であったと

京子は思います


総見院のお墓

こちらは境内にあります、織田一族の眠るお墓です。

こちらの写真の

手前3つ目のお墓が、織田信長のものだそうですよ

他には、奥さんの濃姫や、息子の信忠などのお墓がありました。


総見院の鐘楼

こちらは境内の外にあります鐘楼です。

織田信長の家臣の一人である

堀秀政(ほりひでひさ)が寄進したものなんですね。


そんな史上最強の織田信長も

明智光秀に討たれ、本能寺でその生涯に幕を閉じます。


織田信長の好んだ歌である

「人間50年、下天の内をくらぶれば、夢幻如くなり」

人間なんて

50年の人生、宇宙に比べたら一瞬の出来事だ

と謡っていましたけれど


1年短い、49年の人生に

幕を閉じたんですね~

そんな織田信長にゆかりの総見院の場所はコチラ↓
大きな地図で見る

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