こんにちは京子です


さて、今日は

悲劇のヒロインとも言われる

皇女「和宮(かずのみや)」ゆかりの神社であり


青森の「ねぶた祭」のルーツにもなったとも言われている

粟田祭(あわたまつり)の粟田大燈呂(だいとうろう)も行われている

粟田神社の拝殿

粟田神社(あわたじんじゃ)です


ちなみに皇女「和宮」をご存知ですか


時は幕末、幕府と朝廷の公武合体政策によって

皇族から降嫁し、江戸幕府へと嫁いだ皇女「和宮」です。

彼女については後々ご説明させていただきますね(・∀・)ノ


粟田神社の石碑

どどんと立つ「粟田神社」と描かれた石碑の向こうに

鳥居が見えますけれど

粟田神社の鳥居

粟田神社のこま札

さてさて、では早速~っ

こま札を読んでみましょう

粟田神社も何度か焼失、再建を繰り返していますけれど

現在の建物は複合社殿

(※本殿が拝殿などの他の社殿と結合したもの)と言いまして

建築されたのは江戸時代後期で大変貴重なものだそうです~。


粟田神社の長い階段

2つめの鳥居をくぐると

やっと神社の境内らしくなってきましたね~っ。


この長い階段を登っていると

左手にあったのが・・・

粟田神社の鍛冶神社(かじじんじゃ)

鍛冶神社(かじじんじゃ)です。


この付近は

三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)が住んでいたといわれる地であり、

彼が祭神として祀られているんですね~っ


うーん?誰だっけその人!?と言いますと・・・

京都祇園祭において、四条界隈に立つ、鉾のひとつである

長刀鉾のてっぺんについている


長刀を作ったアノ人ですよー

うーん、まさかこんな所で三条小鍛冶宗近さんと出会えるとは思いませんでした~!!


粟田神社の明治天皇の歌碑

鍛冶神社には「太刀」と題して、明治天皇の歌碑が建てられています。


さて、この三条小鍛冶宗近も住んでいらしたこの辺りは

粟田口(あわたぐち)と言いまして

「京の七口(きょうのななくち)」のひとつであります


京都に出入りする口(出入り口)が全部で7つあったのですね

そのひとつが粟田口でした。


粟田口は東海道や、近江、大津から京都に入る入り口であり

東の国から京都にやって来た人々は粟田口に来ると

「やっと着いた~っ。よかった、よかった!」となったようですねっ。


逆に、京都を出る人にとっても

旅立ちの場所でもあったようで

粟田口を行き来する人々は、この粟田神社に立ち寄り

安全を祈願し参拝していたんですね~


そして!

京都から江戸へと旅立たれた皇女「和宮」の御降嫁の行列もここで祈願されたと伝えられています。


今では、愛するもの同士が

結婚する事を許される世の中ではありますけれど

それはほんのここ50年弱の話でありまして


幕末の頃は身分の違うもの同士の結婚なんていうのは考えられなかったんですね。


そして、そんな政治的陰謀において人生を変えられた

一人の皇女、和宮(かずのみや)という女性がいました。


粟田神社の御神馬(ごしんめ)

階段の右手に建っていたのが、御神馬(ごしんめ)と呼ばれる神様の乗るお馬さんなんです。


ここで時代をご説明させて頂きますと

時は幕末。


初めてペリーが軍艦で浦賀へ来航し、日本に開国を迫った事により

幕府だけでは対応を決めかね

諸大名や朝廷へと意見を聞いた事をきっかけに

幕府と諸大名、朝廷において意見が対立するようになります。


時の天皇である、孝明天皇は

攘夷派(外国人を追い出す)として有名でした。


そして、尊王派の人たちは後に攘夷という思想と合体し

尊王攘夷と呼ばれるようになります。


幕府は外国の強さを知っていましたが

一方では尊王攘夷運動が活発化して来ます。


つまり、

天皇&尊王攘夷

VS

徳川幕府

というように徐々に意見が対立していった時だったんですね


さて、そこで幕府がとったアイデアが

公武合体(こうぶがったい)なんです


幕府に不満を持ってる人たちを懐柔する作戦として

「公」=朝廷、「武」=江戸幕府

この2つを合体(公武合体)させる事を思いついたのです。


幕府としては

尊王派の人たちをこれで黙らせる事が出来ますよね

(天皇家と繋がれば敵ではなくなる)


そこで幕府は天皇家からお嫁さんを貰おうとなったワケなんですね

結婚する相手は14代将軍「徳川家茂」です。


粟田神社の舞殿

階段を上りきると舞殿が見えてきました~とっても立派ですよね★


そこで、朝廷から出されるお嫁さんに選ばれたのが

皇女「和宮」でした。


でも、そんな彼女にはもうすでに婚約者がいたんですね。


それが

有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)です。


和宮からすれば、もうすでに人生をともに歩む相手を決めていたのに

突如、降って沸いた話に困惑したでしょう・・・


そりゃそうですよね・・・

悲しいことこの上ないと思います・・・


しかも、公家の彼女からすれば

武士の世界(家来)に嫁がなければいけない事や

都を離れる事にも抵抗があったでしょう


( ´Д`)はっきり言って彼女にとっていい事なんて何1つない政策なんです(泣)

もちろんこれを聞いた

尊皇攘夷派の人たちも怒りますよね。


粟田神社の平安神宮の鳥居

境内から見下ろすと遠くには平安神宮の鳥居が見えますねっ


粟田神社の南天

境内には秋に赤い実をつける、こちらは南天です。鳥の大好物だって知ってました!?


そして朝廷は一度は拒否するものの

幕府に対し10年以内にもう一度鎖国状態に戻す事を条件に

この公武合体に合意し

皇女「和宮」の降嫁が決まるワケなんです。


皇族から武家へ嫁に行くのは

日本史を通じて、皇女が武家に降嫁し、関東下向した、唯一の例なのです


これにより、幕人で時の老中が

坂下門外の変によって切りつけられるという事件が起こります。


さて、ここまで書くと

和宮は可愛そうな人のままで終わりそうですけれど

嫁いだ後は


旦那さんである「家茂」にはとっても大事にされたそうです。

愛妻家であった将軍さんだったんですね


和宮が江戸に来て以来

もちろん京都になんて帰れる事は一生出来ないかもしれません。

けれど、心優しい旦那さんである家茂は


彼女をとても大切にしていたと言われています。

しかし、そんな2人にも別れが来るんです。


粟田神社の剣鉾

こちらはなんと絵馬!変わった形をしていますね。「剣鉾」というそうです。ねぶたの原点とも言われる粟田祭には、この形をした巨大な剣鉾も巡行に参加します。


粟田神社の粟田大燈呂(京ねぶたとも呼ばれています)

そして、これは!?というと、粟田大燈呂(京ねぶたとも呼ばれています)でパレードするんですね♪それにしても大きいです!青森のねぶた祭りだともっと大きいんでしょうか?


降嫁から4年が経っていました。

第二次長州征伐で大阪城へと着いた家茂は

和宮に対して京都の西陣織をお土産に買ったそうです。


江戸を自由に離れる事が出来ない和宮への

ささやかなプレゼントだったのでしょう。


しかし、生まれてから病弱だった家茂は

20歳という若さで、その大阪城で病に倒れ亡くなってしまったんです。


江戸の和宮の下へ届いたのは

家茂の亡骸と、彼女の為に買った西陣織だったんですね。

和宮はショックのあまり、西陣織を胸に抱き泣き崩れたといいます(泣)

彼女はその時の気持ちを歌に残しています。


「空蝉の 唐織り衣 なにかせん 綾も錦も 君ありてこそ」

(美しい西陣織も、あなたがいるから意味があるのであって、あなたがいなくては何の意味もないのです。)


家茂が和宮へプレゼントした西陣織の柄は「七宝柄」だったそうです。

円が連なるこの柄は、縁が続きますようにという願いが込められているんですね

その後、時は移り坂本龍馬、中岡慎太郎の尽力により薩長同盟が成り

鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争へと発展します。


いよいよ、江戸城総攻撃作戦が実施されようとしている最中

・・和宮は動きます。

徳川の人間として徳川を守る事を決意するのですね。


ちなみに、その時の東征大総督(幕府を攻めるトップ)は

かつての

和宮の婚約者であった


有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)だったのです。


あの日、すれ違ってしまった2人は

悲しくも、このような運命を辿るのです。


粟田神社の粟田大燈呂(だいとうろう)

粟田大燈呂(だいとうろう)には本当に様々なものがパレードしてるんですね。見れただけでもラッキーです。

粟田大燈呂恵比寿さんもいました

恵比寿さんもいました~。大燈呂には他にも牛頭天王や法然上人や天女もパレードするそうですよ。


結果的には、みなさんご存知の通り

江戸城無血開場は実現されます。

彼女は徳川を守る事が出来たのですね。


その後

彼女は32歳という若さでこの世を去ります。

「家茂の側に葬って欲しい」との彼女の遺言を尊重し増上寺へと葬られる事となりました。


近年になり墓地の改装が行われ

和宮の棺の中から一枚の写真が発見される事となりました。


残念ながら写真の保存状態が悪く

写っていたものは


翌日に消えてしまったようなんですけど


なんと・・・

烏帽子に直垂(ひたたれ)姿をした男性が写っていたそうです。

そのような姿で写っている事から


その男性は有栖川宮熾仁親王だったという意見や

弔われている菩提寺が徳川ゆかりの寺という事から

将軍家茂だったという意見もあり


現在ではそれを確認する術は残念ながらありません。

みなさんはどちらだと思われますか


そんな皇女「和宮」も降嫁の際に祈願したと言われる

粟田神社の場所はコチラ↓


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